金銭感覚も、自己と一緒に更新されている
最近、自分の金銭感覚が日々変わっていることに気づく。昨日まで「これはもったいない」と思っていたことが、今日は「ここにはお金を使ったほうがいい」と思える。逆に、以前なら何となく払っていたものを、「これはもういらないな」と感じることもある。単に財布の紐が緩くなったり、固くなったりしているわけではない。どうも、お金そのものについての見方が変わっている。そして最近考えている「自己」の話と重ねてみると、面白いことに気づいた。金銭感覚も、自己と同じように更新され続けるモデルなのではないか。
100万円は大きなお金か?
例えば、「100万円は大きなお金か?」と聞かれたら、どう答えるだろう。もちろん100万円は100万円である。数字は変わらない。しかし、その意味は人によって違う。さらに同じ人でも、人生の時期によって違う。20代の100万円。子育て中の100万円。住宅ローンを抱えているときの100万円。現役で毎月給与が入ってくるときの100万円。仕事を辞めた後の100万円。将来の収入がよく分からないときの100万円。年金なども含めて生涯のキャッシュフローがかなり見えてきたときの100万円。全部、同じ100万円である。しかし、感じ方はまるで違う。つまり金銭感覚とは、金額そのものではない。自分が置かれている世界の中で、その金額にどんな意味を与えるか。これが金銭感覚なのだろう。
お金にも「モデル」がある
そう考えると、最近考えている「自己モデル」とよく似ている。人間は世界そのものを頭の中に入れることはできない。そこで現実を圧縮して、「世の中はだいたいこうなっている」という世界モデルを作る。そして、その世界の中に、「自分はこういう人間で、ここにいる」という自己モデルを置く。お金についても同じことをしているのではないか。収入。資産。負債。将来の支出。寿命。家族。健康。物価。年金。社会保障。自分の欲求。こうした大量の情報をまとめて、「自分にとって、お金とはこういうものだ」というモデルを作っている。私はこれを仮に、「お金モデル」と呼んでみたい。
現役時代のお金モデル
サラリーマン時代を振り返ると、お金の流れは比較的分かりやすかった。働く→稼ぐ→使う→残す→貯める→増やす→将来に備えるかなり直線的である。もちろん旅行もしたし、家も買ったし、子どもにもお金を使った。しかし大きな方向としては、「今稼いだお金の一部を未来へ送る」という感覚が強かった。これは合理的だった。まだ人生の先が長い。子どももいる。将来何が起きるか分からない。老後もある。だから「貯める」「増やす」「減らさない」という方向へ力がかかる。それがお金についての常識になっていた。
ところが、人生のフェーズが変わった
卒サラすると、この構造が変わった。もう給与を増やすことが人生の中心ではない。子どもたちも独立した。負債も大きく減った。資産や将来の年金収入も含めて、残りの人生のお金の姿が以前よりかなり見えるようになってきた。すると当然、お金モデルも変わる。しかし面白いのは、数字が変わったからモデルが自動的に変わるわけではないということである。頭では、「これくらい使っても大丈夫」と分かっている。ところが身体のどこかでは、「減らさないほうがいい」と思っている。長年使ってきたお金モデルが残っているのだろう。だから卒サラ後のお金については、BS、PL、CFを計算するだけでは終わらない。数字以上に、自分の中のお金モデルを更新する作業が必要になる。
お金は、貯めるものから循環するものへ
最近、私はお金について「循環」という言葉をよく使うようになった。以前は、稼ぐ→貯める→増やすという直線で見ていた。しかし今は、お金→良い生活→身体・経験・関係→安心・満足・記憶という流れが見えるようになってきた。例えば、身体を維持するためにお金を使う。良い食事をする。旅へ行く。人と会う。住環境を整える。新しい経験をする。すると預金残高は減るかもしれない。しかし、お金が消滅したわけではない。お金という記号が、身体、経験、関係、記憶へ変換された。そう考えると、「使う」という言葉さえ少し違って見える。お金を消費したというより、お金を別の価値へ変換したのである。
それでも「減る」のが嫌なのはなぜか
ところが、ここにもうひとつ面白い問題がある。十分なお金があったとしても、人間は残高が減ることに抵抗を感じることがある。なぜなのだろう。おそらく、お金には交換手段以外の機能があるからだ。安心。自由。選択肢。将来への備え。社会的評価。達成感。そして、「自分はこれくらいのものを築いた」という自己評価。つまり、お金は単なる交換手段ではない。ときには、自分自身による自分を測る記号にもなっている。ここで、お金モデルと自己モデルが接続する。
金銭感覚は、自己モデルの一部なのではないか
サラリーマン時代の私には、「働く私」「稼ぐ私」「資産を作る私」「家族を守る私」「将来に備える私」という自己モデルがあった。そこでは、お金を増やすことと自分がきちんと生きていることが、かなり強く結びついていたのだと思う。しかし今の自己モデルは変わりつつある。身体を維持する私。人と会う私。東京と箱根を行き来する私。ときどき違う環境へ行く私。観察する私。考える私。書く私。そういう自分の比重が大きくなってきた。自己モデルが変われば、当然、「お金は何のためにあるのか?」という答えも変わる。だから最近、金銭感覚が日々更新されているのだろう。
自己とお金は、一緒に動いている
ここまで考えると、こんな循環が見えてくる。自己モデルが変わる→お金の意味が変わる↓使い方が変わる→経験が変わる→身体や人間関係が変わる→世界の見え方が変わる→自己モデルがまた変わる自己とお金は別々に存在しているわけではない。相互に影響しながら更新されている。だから「正しい金銭感覚」を一度作れば、それで終わりというものでもないのだろう。20代には20代のお金モデルがある。40代には40代のお金モデルがある。64才には64才のお金モデルがある。そして同じ64才でも、今日と5年後では違って当然である。
「○○観」はすべてモデルなのかもしれない
ここで、さらに話を広げてみる。金銭感覚だけなのだろうか。仕事観。健康観。夫婦観。家族観。時間感覚。老いについての感覚。幸福観。死生観。どれも固定したものではない。経験する。身体が反応する。人と話す。考える。世界モデルが変わる。自己モデルが変わる。すると、それぞれの「○○観」も変わる。つまり私たちは、世界モデルと自己モデルから、無数の「○○観」を作っているのかもしれない。
卒サラ後に起きていること
そう考えると、卒サラ後4年間に起きていることが少し違って見えてくる。私は最初、「サラリーマンモードから脱却する」という作業をしているのだと思っていた。それには3年くらいかかった。しかし、その後も自分は変わり続けている。最近になって、その理由が少し分かってきた。サラリーマンモードという大きな外枠が外れたことで、長年ある程度固定されていた世界モデルと自己モデルが、再び動き始めた。そして、その下につながっている金銭感覚、仕事観、時間感覚、身体観、人間関係、幸福観、人生観、そうしたものまで、一斉に再学習を始めた。だから毎日のように、「あれ? 以前はこう思っていたのに」が起こる。これは不安定なのではない。むしろ、更新が再開したと考えたほうがよさそうだ。
金銭感覚も完成させなくていい
以前の私なら、「老後のお金について、自分なりの考え方を確立したい」と思ったかもしれない。しかし最近は、少し違う。確立しなくてもよいのではないか。もちろん数字は確認する。BSもPLもCFも見る。将来の安全性も確認する。しかし、そのうえで、「今の自分は、お金をどう感じているのだろう?」と観察する。減ることが怖いのか。使うことが楽しいのか。何には使いたくて、何には使いたくないのか。なぜそう感じるのか。そこには、現在の自己モデルがかなり映っているはずだ。だとすると、金銭感覚とは単なる家計管理の問題ではない。金銭感覚を観察することは、自分自身を観察することでもある。自己が更新されれば、お金の意味も更新される。お金の使い方が変われば、経験が変わり、また自己が更新される。ここにも、循環がある。64才。自分自身が変わり続けている。そして、お金についての感覚も変わり続けている。以前なら、それを「まだ考えが定まっていない」と感じたかもしれない。今はむしろ、定まらなくていいのかもしれないと思い始めている。自己も、お金も、人生観も。完成させるものではなく、現実と出会いながら、死ぬまで更新していくものなのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。温泉-朝食-休息-チェックアウト-買物。帰宅。昼寝。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
