私は「存在」ではなく「生成」なのか ―― 縁起と無我の発見
1.人生には主人公がいると思っていた
かつて私は、自分という確固たる存在が人生を操縦していると思っていた。自分が考え、自分が判断し、自分が行動する。その結果として、人生が形づくられていく。37年間半のサラリーマン生活では、まさにそういう感覚だった。目標を設定し、計画を立て、努力し、成果を出す。人生の中心には「私」という意思決定者がいて、その私が人生を動かしている。しかし、還暦で卒サラして4年間が経過。自分自身や日々の生活を観察する中で、その理解が少しずつ変わってきた。そもそも、人生を操縦していると思っていた「私」とは、何なのだろうか。
2.身体が変われば、私も変わる
最近、東京でもジムに通うようになった。身体を動かす機会が増えると、体重が減り、身体が引き締まり、活力が生まれてきた。すると不思議なことに、活動意欲まで高まってくる。一方、大腸内視鏡検査のために2日間食事制限をした際には、思考力が十分に発揮できない感覚があった。同じ私のはずなのに、身体の状態によって、意欲も思考力も変わってしまう。自然との関係も同様だ。箱根の山中で過ごしているときと、東京の街中で過ごしているときでは、気分も思考も違う。人との会話によって新しい発想が生まれることもある。何も予定のない余白の時間に、それまで見えていなかったものが突然見えてくることもある。同じ景色(例えば富士山)でさえ、その日の心の状態によって違って見える。こうした経験を重ねるうちに、ひとつの疑問が浮かんできた。本当に、確固たる「私」が存在して、その私が身体や思考を操縦しているのだろうか。むしろ逆ではないか。身体があり、自然があり、人との関係があり、時間と空間がある。それらが相互に作用する中で、感情が生まれ、思考が生まれ、行動が生まれる。そして、その経験によって、また「私」が更新されていく。
3.仏教の「縁起」という考え方
このように考えていたとき、仏教の「縁起」という言葉に出会った。縁起とは、あらゆるものは独立して存在するのではなく、さまざまな原因や条件によって生じている、という考え方である。つまり、何ものも、それ自体で独立自存する固定的な存在ではない。「私」も例外ではない。身体、感覚、記憶、思考、周囲の環境、人間関係。それらの条件によって、今この瞬間の私が成立している。条件が変われば、私も変わる。ここから、仏教の「無常」と「無我」という考え方も理解しやすくなる。無常とは、あらゆるものが変化し続けること。無我とは、独立した固定不変の自己という実体は見いだせないこと。縁起、無常、無我。これらは別々の教えというより、同じ現実を異なる角度から捉えたものなのだろう。私はこれまで、仏教を体系的に学んできたわけではない。むしろ、自分の生活を観察し、身体と思考の関係を考え、自己とは何かを問い続けるうちに、仏教が古くから論じてきた問題に行き着いたようだ。
4.「私」は名詞ではなく動詞なのか
ここで、ひとつの見方が浮かんできた。「私」は、完成された存在ではなく、絶えず生成されるプロセスなのではないか。昨日の私と今日の私は、確かに連続している。しかし、まったく同一ではない。昨日の経験が今日の私を変え、今日の経験が明日の私を変える。しかも、その変化は私の意思だけで生じるわけではない。天候、体調、睡眠、食事、会話、場所、偶然の出来事。無数の条件が私に作用している。そして、私自身の行動もまた、次の私を生み出す条件となる。そう考えると、「私」という言葉は、固定した何かを指す名詞というより、絶えず変化し続ける働きを表しているように思えてくる。私は「存在する」というより、「生成され続けている」。もっとも、これは自己が存在しないという意味ではない。日常生活の中で、私は確かに存在している。記憶もあり、責任もあり、他者との関係もある。ただし、その私を、条件から独立した不変の実体と考える必要はないということだ。
5.生活OSとは、縁起の条件を整えることか
この発見は、私が卒サラ後に考えてきた「生活OS」ともつながっている。私は、人間の状態を左右する重要な要素として、身体、自然、関係、時間・空間に注目してきた。身体を動かす。自然に接する。人との関係を保つ。場所を選び、活動と余白の時間を調整する。これらは単なる健康法や時間管理術ではない。今の私を生み出している条件そのものに働きかける行為なのだ。以前は、自分を変えるためには、まず強い意志が必要だと思っていた。しかし、最近は逆に考えるようになった。意志によって状態を変えるだけではなく、状態を整えることで意欲や行動が自然に生まれてくる。私が「状態ファースト」と呼んできた考え方である。例えば、ジムに行くことで身体が活性化される。身体が活性化されると外出意欲が高まる。外出すれば新しい人や出来事に出会う。その経験が思考を刺激し、また新しい行動につながる。ひとつの変化が、次の変化を生む。この循環をうまく回すことが、生活OSを設計する意味なのかもしれない。もちろん、良い条件を整えれば、必ず良い結果が生まれるわけではない。人生には偶然もあり、自分では制御できないことも多い。しかし、少なくとも、自分を取り巻く条件の一部には働きかけることができる。固定的な主人公がいなくても、人生に参加することはできるのだ。
6.人生の直線から循環へ
振り返れば、サラリーマン時代の私の人生観は、直線的だった。現在の自分が目標を設定し、将来の成果に向かって進む。努力が蓄積され、成果が生まれ、その成果によって自分の価値を確認する。しかし、卒サラ後の生活では、そうした直線的な構造が弱まった。代わりに見えてきたのが、循環である。身体が動くから意欲が生まれる。意欲が生まれるから行動する。行動するから世界との接点が増える。世界との接点が増えるから、新しい経験や発見が生まれる。その経験が、また私の状態を変えていく。人生は、固定的な私が一直線に進めていくものではない。私と世界が相互に作用しながら、私自身も世界との関係も更新されていく過程なのだ。しかも、この循環は同じ場所を回り続けるだけではない。経験の蓄積によって、少しずつ違う場所へ移っていく。以前考えた「螺旋」というイメージにもつながる。
7.主人公でなくなると、人生はどう変わるのか
ここまで考えて、少し意外なことに気づいた。固定的な自己がないと考えることは、決して悲観的なことではない。むしろ、気持ちが軽くなる。自分はこういう人間だ。自分にはこういう能力がある。自分はこう生きなければならない。そうした固定的な自己像に、過度に縛られる必要がなくなるからだ。今日の私が昨日と違っていても構わない。身体が衰えれば、それに応じて生活を変えればよい。関心が変われば、新しい活動を始めればよい。思考が変われば、世界の見方を更新すればよい。そして、何もしていない時間にも、身体や脳は働き続けている。常に目標に向かって自分を駆り立てる必要はない。ただし、何もせず流れに任せればよいということでもない。身体を動かし、人と会い、自然に触れ、余白をつくる。そうした日々の小さな選択が、次の私を生み出していく。人生を完全に操縦することはできない。しかし、人生が展開する条件を整えることはできる。この違いは大きい。
8.私は、人生という循環の中にいる
還暦で卒サラしてから4年間が経過。当初は、会社という大きな仕組みから離れた後、どのように自分の人生を組み立て直すかを考えていた。しかし、最近は少し違う。そもそも、人生を組み立てる主体として想定していた「私」自身が、絶えず変化しているのだ。身体があり、自然があり、人との関係があり、時間と空間がある。それらの相互作用の中で、感情が生まれ、思考が生まれ、行動が生まれる。そして、その経験によって、また私が更新される。私は人生を動かす固定的な主人公ではなく、人生という循環の中で絶えず生成される存在なのかもしれない。仏教は、これを「縁起」という考え方で説明してきた。私にとっての発見は、その考え方が、特別な修行の場ではなく、ジムで身体を動かし、箱根の自然に接し、東京で人と交流し、日々の生活を観察する中から実感できるということだった。そして、最後にひとつの問いが残る。固定的な自己が存在しないのなら、昨日の私と今日の私を、同じ「私」だと感じさせているものは何なのだろうか。記憶なのか。身体の連続性なのか。自分について語り続けている物語なのか。この問いは、まだ解けていない。しかし、解けていないからこそ面白い。64才になって、ようやく「私」という存在そのものが、探究の対象になってきた。人生の主人公だと思っていた私が、実は人生という循環の中で生まれ続けている。そう考えると、明日の私は、今日とはまた少し違う私なのだろう。今日も生きていて面白そうだ。
【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。ゴミ捨て-ヨガ-昼食(うどん)-喫茶-ジム(含む身体測定)-買物。夕食。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
