身体は分散系システムだった ―― 脳は司令塔なのか、それとも調整役なのか
1.身体は脳の命令で動いていると思っていた
私たちは普段、自分の身体をどのように理解しているのだろうか。脳が考え、判断し、命令を出す。そして身体がその命令に従って動く。長い間、私はそのようなイメージを持っていた。いわば、脳が本社で、身体の各器官は支店や工場。脳という中央司令塔が全体を統括しているという理解である。37年間半のサラリーマン生活を送ってきた私には、馴染みやすい構造だった。しかし、最近、自分の身体を観察するうちに、この理解は少し違うのではないかと思い始めた。身体は中央集権型の組織ではなく、自律的な機能が相互に協調する「分散系システム」なのではないか。そう考えると、これまで不思議に感じていたことが、いくつも説明できるようになる。
2.身体の各部分は、自分で仕事をしている
例えば、心臓。心臓は脳から一拍ごとに命令を受けなくても、自ら拍動を生み出している。もちろん脳や自律神経の影響は受けるが、拍動の基本的な仕組みは心臓自身に備わっている。腸も同様だ。腸には独自の神経ネットワークがあり、消化管の運動や分泌を局所的に調整している。脳との情報交換はあるが、脳がすべてを逐一指示しているわけではない。免疫系も興味深い。身体の各所に配置された免疫細胞が異常を検知し、互いに情報をやり取りしながら対応する。筋肉や脊髄にも、局所的な反射や運動調節の仕組みがある。さらに、ホルモンは血液を通じて全身に情報を伝え、代謝や成長、ストレスへの対応を調整している。これらの仕組みを眺めると、身体は実に巧妙にできている。各部分が一定の自律性を持ち、情報を交換し、互いに影響し合いながら、全体として生命活動を維持している。まさに分散協調システムである。もっとも、身体には脳や脳幹などによる高度な統合機能もある。完全に対等な構成要素が集まっているわけではない。身体は、中央集権でも完全分散でもない。階層的な制御と自律分散的な調節が共存するシステムなのだ。
3.身体は、私が意識しなくても働き続けている
考えてみれば、私たちは身体の働きのほとんどを意識していない。心拍数を逐一決めているわけではない。食べ物をどのように消化するかを考えているわけでもない。傷ができれば、身体は自ら修復を始める。運動を続ければ、筋肉や循環器系は少しずつ適応していく。睡眠中でさえ、身体は膨大な仕事を続けている。その間、顕在意識としての「私」は、ほとんど何も指示していない。にもかかわらず、生命活動は維持されている。むしろ、意識が直接管理していない働きの方が圧倒的に多い。ここに、ひとつの重要な事実がある。私が身体を動かしているというより、身体が自ら生命活動を続け、その一部として「私」という意識が生まれているのではないか。もちろん、意識がどのように生まれるかは、現代科学でも完全には解明されていない。しかし、少なくとも、意識が身体のすべてを管理しているわけではないことは明らかだ。
4.身体の状態が、思考を変える
最近、東京でもジムに通うようになった。運動する機会が増えるにつれ、体重が減り、身体が引き締まり、身体全体が活性化してきた。すると、活動意欲まで高まってきた。何かをしようという気持ちが、以前より自然に生まれる。一方、先日、大腸内視鏡検査のために2日間食事制限をした際には、思考力が十分に働かないような感覚があった。同じ脳、同じ私のはずなのに、身体の状態によって思考の働き方が変わる。こうした経験から、私は改めて気づいた。脳も身体の一部なのだ。脳だけが身体から独立して存在し、常に一定の能力を発揮しているわけではない。脳の働きは、睡眠、栄養、血流、ホルモン、身体活動など、多くの条件に左右される。そして、脳の働きが変われば、感情も思考も判断も変わる。つまり、私たちが「自分の意思」と呼んでいるものも、身体の状態と無関係ではない。これまで私は、思考が身体を動かしていると思っていた。しかし実際には、身体が思考を動かしている側面も大きい。両者は一方通行ではなく、双方向に影響し合っている。
5.全体の状態は、部分の相互作用から生まれる
分散系システムには、「創発」という興味深い概念がある。個々の構成要素の働きだけでは説明しきれない性質が、それらの相互作用から全体として現れるという考え方だ。例えば、身体のどこか一か所に「元気」という機能が存在するわけではない。心臓、肺、筋肉、神経系、内分泌系などが協調して働くことで、全体として活力のある状態が生まれる。疲労感や眠気、空腹感も、単一の器官だけで完結するものではない。複数の仕組みが関与し、その結果が脳で統合され、私たちはひとつの感覚として経験する。私は、これを日常生活でも実感している。身体が軽い日は、世界が広く感じられる。疲れている日は、普段なら気にならないことが負担になる。睡眠が十分に取れた朝は、思考が自然に動き出す。同じ世界に接していても、身体の状態によって、その世界の見え方が変わる。私たちが「私の状態」と呼んでいるものは、身体全体の複雑な相互作用から生まれているのだろう。
6.身体そのものが「縁起」で成立している
ここで、最近考えてきた仏教の「縁起」という概念につながる。縁起とは、あらゆるものは独立して存在するのではなく、さまざまな原因や条件によって生じているという考え方である。私は最近、確固たる自己など存在せず、身体、自然、人との関係、時間・空間が相互に作用する中で「私」が生成されているのではないかと考えるようになった。しかし、身体を分散系システムとして眺めると、その理解をさらに一段深めることができる。身体そのものが、無数の相互依存関係によって成立しているのだ。心臓は肺や血管と切り離して働けない。筋肉は神経や循環器系から独立して働けない。脳も身体の他の器官から切り離されれば、正常な機能を維持できない。さらに身体は、外部の自然環境にも依存している。酸素、水、食物、温度、光、微生物。私たちの生命活動は、身体の内部だけで完結しているわけではない。身体の内部にも縁起があり、身体と外界の間にも縁起がある。もちろん、仏教の縁起と生理学の分散制御は、目的も方法も異なる考え方である。それでも、独立した固定的な実体ではなく、条件と関係性によって成立するものとして身体を理解する点では、両者は深く響き合う。
7.では、「私の意思」はどこから生まれるのか
ここで、さらに興味深い問いが浮かんでくる。身体が分散協調システムであり、思考もその一部だとすれば、「私の意思」とは一体何なのだろうか。私たちは普段、自分の意思で行動していると思っている。しかし、その意思が生まれる前に、身体の内部ではすでに多くのことが起きている。空腹になれば食べたくなる。疲れれば休みたくなる。身体が活性化すれば、外出したくなる。人と話せば、新しいことを考えたくなる。こうした欲求や意欲の多くは、意識がゼロからつくり出しているわけではない。身体や環境との相互作用から生まれてくる。そして思考は、そこに言葉を与え、選択肢を比較し、将来を予測し、行動を調整する。そう考えると、思考の役割は、人生を一方的に指揮する司令官というより、身体から生まれてくるさまざまな情報や欲求を整理する編集者に近いのかもしれない。もちろん、思考には衝動を抑え、長期的な目標を設定し、身体の状態を変える力もある。ただし、その思考自体も、身体の状態や過去の経験に依存している。思考は身体の外側に立つ司令官ではない。身体というシステムの内部で働く、重要な調整機能なのだ。
8.生活OSとは、分散系システムを整えること
この理解は、私が卒サラ後に考えてきた「生活OS」にもつながる。私はこれまで、身体、自然、関係、時間・空間を生活の基本要素として捉えてきた。そして、それらのバランスを整えることで、穏やかで活発な状態を維持したいと考えている。身体が分散協調システムであるなら、生活OSとは、そのシステムがうまく機能するための条件を整えることとも言える。運動によって身体の機能を維持する。食事と睡眠によって回復を促す。自然に接することで感覚を刺激する。人との交流によって感情や思考を活性化する。活動と余白の時間を適切に配分する。こうした日々の営みは、単なる健康管理や余暇活動ではない。身体と外界との相互作用を整える行為である。そして、その結果として、意欲や思考、行動が生まれてくる。私が「状態ファースト」と呼んできた考え方は、身体の分散協調という観点からも理解できる。良い行動を意志の力だけで生み出そうとするのではなく、良い行動が自然に生まれやすい状態を整える。これが、私にとっての生活OSの基本思想になりつつある。
9.身体は、私が所有する機械ではない
かつて私は、身体を自分が所有し、管理するものとして捉えていたように思う。身体は人生の目標を達成するための道具であり、思考がその使い方を決める。しかし、今は少し違う。身体は、私が一方的に管理する機械ではない。数えきれないほどの細胞や器官が、自律的に働き、相互に協調し、絶えず自分自身を維持・更新している生命システムである。そして、私が「自分」と呼んでいるものも、その働きから切り離すことはできない。64才になり、身体の衰えを少しずつ感じるようになった。だからこそ、最近は身体への関心が高まっている。ジム、ヨガ、ピラティス、散歩、水泳。これらは単に筋力や柔軟性を維持するためだけではない。身体という生命システムの働きを保ち、世界との関係を維持するための活動なのだ。12年後、76才になったときにも、自分の身体で移動し、人と会い、自然に接し、新しい経験を重ねていたい。そのための先行投資が、今の身体づくりなのだと思う。
10.私は、身体の中にいるのではない
身体を分散系システムとして考えてきて、最後にひとつの発見があった。これまで私は、「私」という存在が身体の中にいて、身体を操縦しているように考えていた。しかし、そうではないのかもしれない。身体があり、その内部では無数の相互作用が起きている。身体は外部の自然や社会と絶えず情報や物質を交換している。その中で、感情が生まれ、思考が生まれ、意思が生まれる。そして、それらがまた身体や外界に働きかける。「私」が身体を動かしているだけではない。身体という生命システムの働きの中から、「私」が生まれている。身体は分散系システムであり、私という存在もまた、そのシステムの中で絶えず生成され、更新されている。そう考えると、「無我」という仏教の言葉も、以前より身近に感じられる。固定的な主人公としての私がいなくても、身体は生きている。身体は世界と関係し、経験を重ね、変化し続けている。そして、その生命活動の中で、今日も新しい私が生まれている。頭は未来へ、身体は今ここ。ただし、その頭もまた身体の一部なのだ。今日も生きていて面白そうだ。
【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。庭整備。隣家と談笑x2。移動販売-昼食@知人宅-ゴミ捨て。知人の介護アレンジ。知人のスマホ買い替えアレンジ。小田原駅-天山湯治郷(温泉・夕食・休息)。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
