自己とお金

現代人の頭の中を占拠する「自己」と「お金」

現代人の頭の中では、「自己」と「お金」が随分と大きな存在になっているのではないか。最近、そんなことを考えている。自分は何者なのか。どう評価されているのか。何を達成したのか。これからどう生きるのか。一方で、いくら稼ぐのか。いくら持っているのか。老後のお金は足りるのか。どうすれば資産を増やせるのか。私自身、長いサラリーマン生活を振り返ると、この二つに相当な思考資源を使っていたように思う。しかし、そもそも生命体としての人間にとって、「自己」と「お金」はどのような存在なのだろうか。

生命体が向き合ってきた世界

生命体としての人間が直接向き合っているのは、身体、自然、他者との関係、そして時間と空間である。身体は空腹や疲労、快楽や痛みを感じる。自然は気候や季節、食料や生活環境を提供する。他者との関係は安心や喜び、ときには緊張を生む。そして人間は、特定の場所で、一定の時間の流れの中を生きている。これらは、頭の中の抽象的な概念ではなく、生命活動そのものを構成する世界である。ところが、人類は文明の発展とともに、二つの強力な道具を発達させた。ひとつが「自己」というモデル。もうひとつが「お金」という道具である。

自己は人生を管理し、お金は資源を管理する

自己とは、過去の経験を統合し、現在の自分を認識し、未来の行動を方向づけるためのモデルだと考えられる。昨日の私と今日の私、そして10年後の私を、ひとつの連続した存在として理解する。この能力によって、人間は長期的な目標を設定し、計画を立て、社会的な役割を担えるようになった。

一方、お金は、社会の資源を時間と空間を超えて利用するための道具である。今日の労働の成果を蓄積し、10年後に使うことができる。遠く離れた場所にいる見知らぬ人の生産物やサービスも利用できる。つまり、自己は人生を時間軸上で管理するモデルであり、お金は社会的資源を時間軸上で管理する道具である。どちらも、人類が複雑な文明社会を築くうえで、大きな役割を果たしてきた。

いつの間にか、道具が主人公になった

ところが、ここに逆転現象が起きているように思う。本来、自己もお金も、生命活動をより豊かにするためのものだったはずだ。しかし現代社会では、自己の価値を高めるために身体を酷使し、お金を増やすために現在の生活を犠牲にすることが珍しくない。しかも、このふたつは相互に強化し合う。お金を稼ぐことが自己評価につながり、高い自己評価を維持するために、さらにお金を稼ごうとする。地位、肩書、収入、資産額。こうした指標が、自分という存在の価値を測る物差しになっていく。もちろん、自己意識や財産への関心は昔から存在していた。しかし、現代社会ではそれらが数値化され、比較され、絶えず管理されるようになった。こうして、生命活動を支えるための道具が、いつの間にか人生の主人公になってしまったのではないか。

還暦卒サラで起きたふたつの変化

私自身、還暦でサラリーマン生活を終えてから、4年間が経過した。振り返ると、この4年間で大きく変わったのが、「自己」と「お金」に対する認識だった。

まず、自己について。かつて私は、自分という確固たる存在が人生を操縦していると思っていた。しかし今は、身体、自然、他者との関係、時間と空間が相互に作用する中で、感情が生まれ、思考が生まれ、行動が生まれる。そして、その経験によって自己モデルも絶えず更新されると考えるようになった。仏教でいう「縁起」や「無我」とも通じる理解である。自己は、人生を動かす固定的な主人公というより、生命活動の中から絶えず生成される存在なのだろう。

次に、お金について。長い現役生活では、稼ぐこと、蓄積すること、資産を管理することに相当なエネルギーを使ってきた。しかし64才になった今、お金をさらに蓄積することの限界価値は、以前より小さくなっていると感じる。むしろ、お金を使って新しい経験をする。人との関係を深める。知らない世界に触れる。身体を整える。そうしたことの価値が、相対的に大きくなってきた。お金が重要でなくなったわけではない。お金を、人生の目的から生活を支える道具へと戻しつつあるのだと思う。

頭の中に余白が生まれる

ここで、もうひとつ面白いことに気づく。自己とお金について考える時間が減ると、頭の中に余白が生まれるのではないか。身体は常に「今ここ」で生きている。しかし思考は、10年前の失敗を反芻し、20年後の資産残高を心配することができる。この時間を超える能力は、人類の大きな強みである。しかし、過去の自己評価や将来のお金の心配に思考が占拠されると、今ここにある世界への関心が薄れてしまう。

では、その占有が減ると何が起きるのか。自然を観察する。身体の変化を感じる。他者に関心を持つ。文明の仕組みを探究する。新しいことを経験し、発見する。そうした外部世界への関心が広がっていくのではないか。実際、私自身、卒サラ後の4年間で、身体、自然、人間関係、文明、歴史、認知科学など、関心の対象が随分と広がった。これは単に自由時間が増えたからだけではないと思う。自己とお金が頭の中で占める割合が、相対的に小さくなったことも関係しているのではないだろうか。

自己とお金を、適切な位置に戻す

考えてみれば、自己もお金も、人類が発達させた優れた仕組みである。問題は、その存在自体ではなく、頭の中で占める位置と大きさなのだろう。自己は、生命活動を理解し、方向づけるためのモデル。お金は、生命活動を支え、選択肢を広げるための文明の道具。どちらも必要だが、主人公にする必要はない。主人公という言葉を使うなら、それは身体、自然、関係、時空の中で展開される生命活動そのものなのかもしれない。還暦卒サラから4年間。私が経験してきた変化を一言で表すなら、「自己とお金を中心に据えた人生」から、「生命活動そのものを中心に据えた人生」への転換だったように思う。そして、最近ますます強く感じることがある。自己への意識を無理に減らそうとする必要はない。世界への関心を増やせばよい。世界が大きくなれば、自己は相対的に小さくなる。長男宅@シンガポール滞在中にそのような感じになる。お金もまた、世界を経験するための一つの道具に戻っていく。もしかすると、これが私にとっての「心の平穏」に近づく道なのかもしれない。

【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。ジム-昼食(麻辣湯)。マシンピラティス-買物。夕食。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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