穏やか・活力

穏やかに、しかし生き生きと ― 釈迦の「苦」から考える現代人の生き方

約2500年前、インドに生まれた仏教は、「苦」からの解放を中心的な課題とした。では、当時のインド人が経験していた「苦」と、現代日本人が経験している「苦」は同じなのだろうか。古代インドでは、病気、飢え、貧困、早死に、身分や社会的制約など、生存に直結する苦しみが今よりも身近だったはずだ。一方、現代日本では、医療、社会保障、経済発展によって、そうした苦しみの多くが軽減されている。もちろん、現代にも貧困や病気はある。しかし、生活がある程度安定した人々にとっては、仕事上の評価、他者との比較、将来への不安、孤独、自己実現など、心理的・社会的な苦しみが大きな比重を占めるようになった。つまり、時代とともに「何に苦しむか」は大きく変化した。しかし、「なぜ苦しむか」という根本構造は、案外変わっていないのかもしれない。

苦の根本には「執着」がある

初期仏教では、苦しみの原因として、欲望や執着が重視された。人間は、健康、財産、地位、人間関係など、さまざまなものを手に入れようとする。そして、手に入れたものを失いたくないと思う。しかし、世の中のあらゆるものは変化する。身体は老い、財産は増減し、人間関係も変わる。自分自身の感情や思考さえ、絶えず変化している。それにもかかわらず、人間は変化するものに永続的な安定を求める。ここに苦しみの根本的な構造がある、というのが仏教の重要な洞察だった。最近、私は「自己」というものについて考えることが多い。かつては、確固たる自分が存在し、その自分が人生を操縦していると思っていた。しかし、今は少し違う。身体、自然、人間関係、時間、空間など、さまざまな条件が相互に作用する中で、感情や思考が生まれ、行動が生まれる。そして、その経験によって「自己」も更新されていく。自己とは、固定的な実体というより、生命活動の中で絶えず生成されるモデルなのではないか。そう考えると、固定的な自己に執着すること自体が、苦しみを生み出す一因なのだろう。

苦から解放された後、何を目指すのか

ここで、ひとつの疑問が浮かんだ。仏教が「苦からの解放」を目指したとして、現代の豊かな社会に生きる私たちは、その先に何を目指すのだろうか。苦しみが少なければ、それで十分なのだろうか。例えば、仕事をせず、他者との関係も最小限にして、静かに暮らしていれば、日々のストレスは減るかもしれない。しかし、それだけで充実した人生になるとは限らない。人間は生命体である。身体を動かし、外の世界を探索し、人と関わり、新しいことを学び、何かを創造する。そうした活動そのものに、生命の喜びがあるのではないか。そこで思い浮かんだのが、「穏やかながら、活力もある状態」という表現だった。

穏やかさと活力は両立する

穏やかさと活力は、一見すると反対の性質に見える。穏やかさとは、静かで落ち着いていること。活力とは、エネルギーに満ち、積極的に活動すること。しかし、必ずしも矛盾するものではない。穏やかさとは、不安、執着、過剰な欲望、自己意識などに振り回されない状態。一方、活力とは、好奇心や意欲が自然に湧き、身体が動き、人との交流や創造的な活動を楽しめる状態。つまり、穏やかさは内面的な安定であり、活力は外の世界に向かう生命エネルギーと考えられる。両者は十分に両立する。むしろ、心が穏やかだからこそ、余計な葛藤にエネルギーを奪われず、外の世界に向かうことができるのかもしれない。初期仏教においても、悟りは単なる無気力を意味しなかった。釈迦自身、悟りを開いた後も長年にわたって各地を歩き、人々に教えを説き続けた。執着から自由になることと、活動的に生きることは、決して矛盾しないのである。

卒サラ4年間で見えてきたこと

2022年9月に還暦でサラリーマン生活を卒業してから、4年間余りが経過した。最初の2年間は、長年染みついたサラリーマン的な思考や行動様式から抜け出す期間だった。その後の2年間で、自分自身の生活の時間割を作り直してきた。箱根では自然に接し、東京では人と交流する。最近ではシンガポールという第三の生活空間も加わった。ヨガ、ジム、マシンピラティス、ゴルフ、料理、読書、執筆など、活動の幅も広がった。特に最近は、東京でもジムに通うようになり、身体が引き締まり、活動的になってきたと感じる。一方で、予定が詰まりすぎると、心身のリズムが悪くなることにも気づいた。活動が充実していることと、生命全体が良い状態にあることは、必ずしも同じではない。活力だけを追い求めれば、過活動や疲弊につながる。穏やかさだけを追い求めれば、刺激や社会との接点が減り、生活が単調になる可能性もある。大切なのは、その両者のバランスなのだろう。

生命には循環が必要だ

最近、「余白」について考えることが増えた。余白とは、何もしない時間とは限らない。散歩をしたり、家事をしたり、温泉に入ったり、ぼんやりしたりする。外から与えられた課題に追われず、脳が自由に働ける時間である。こうした時間があるからこそ、外の世界で得た経験が整理され、新しい発見や創造につながる。活動と休息。刺激と統合。外向きの時間と内向きの時間。生命は、こうした循環の中で良い状態を維持しているのではないか。したがって、常に穏やかで、常に活力に満ちている必要はない。活動する時には活動し、休む時には休む。大切なのは、必要に応じて状態を切り替え、再び良い循環に戻れることである。

心の平穏から、穏やかな活力へ

これまで、私は人生の目的を「心の平穏」と表現してきた。それは今でも間違っていないと思う。しかし、少し静的な表現だったのかもしれない。人間は、ただ苦しみを避けるために生きているわけではない。世界を観察し、発見し、人と関わり、何かを創造する。そうした生命活動を通じて、世界との関係を絶えず更新していく存在でもある。自己への執着は減らしながら、世界への関心は増やしていく。欲望に振り回されることなく、好奇心を持ち続ける。心は穏やかに、身体は健やかに、世界への関心は旺盛に。これが、今の私にとっての理想的な生命状態なのだろう。「穏やかに、しかし生き生きと。」2500年前の釈迦が問いかけた「苦からの解放」を、現代の生活の中で考え直してみると、そんな言葉にたどり着いた。

【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。大河ドラマ後日鑑賞。墓参り-昼食(イタリアン)-散歩-買物。昼寝。翌日の企画。夕食。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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