この3ヶ月ほど、朝起きると、そのまま執筆に入る日が多かった。
新聞にも目を通さず、世間で何が起きているのかもよく知らない。気がつけば数時間、文章を書いたり、生成AIと対話したりしている。とにかく面白かった。頭の中にぼんやり存在していたものが言葉になり、言葉がつながり、やがてひとつの構造になっていく。ひとつの問いから次の問いが生まれ、それを追いかけているうちに、さらに別の景色が見えてくる。こんなことを3ヶ月間続けてきた。
ところが最近、少し変化が出てきた。以前ほど朝から一気に執筆へ向かわなくなった。身体を動かしたい。街を歩きたい。人と会いたい。新聞も読みたい。外の世界を見たい。そんな感覚が強くなってきた。
最初は「執筆に飽きてきたのかな」とも思った。しかし、どうも違う。執筆そのものは相変わらず面白い。書きたいこともまだたくさんある。おそらく、3ヶ月間の執筆による疲れと、その反動が少し出てきたのだと思う。
思考も使い続ければ疲れる
執筆というと、身体を使わない静かな活動に見える。しかし実際には、かなり激しく頭を使う。記憶を呼び出す。言葉を選ぶ。概念をつくる。構造を考える。過去と現在を行き来する。未来を想像する。しかも生成AIと一緒に書いていると、その速度が速い。自分ひとりなら数日間かけて考えていたことが、対話によって数十分間で先へ進んでしまうこともある。便利である。一方で、人間の思考速度まで突然速くなったわけではない。AIによって思考の展開速度が上がれば、それだけ人間側の処理量も増える。私はこの3ヶ月間、かなり長い時間を「頭の中の世界」で過ごしていたのだろう。
仮想時空から現実へ
私は最近、思考とは「今ここ」を離れる能力ではないかと考えている。人間は記憶によって過去へ行き、予測によって未来へ行き、言語によって目の前に存在しないものまで扱える。私はこの頭の中の世界を「仮想時空」と呼んでいる。執筆は、その仮想時空を存分に使う活動である。ところが身体は違う。身体は常に「今ここ」にいる。頭が30年前へ行っていても、10年後を考えていても、身体は椅子に座っている。この3ヶ月間、私は頭ではずいぶん遠くまで旅をした。その一方で、身体はずっと待っていたのかもしれない。最近になって、「そろそろこちらへ戻ってこないか」と身体から声をかけられているような感じがする。
身体がバランスを戻している
だから最近、運動への関心が急に高まったことも、街を歩きたくなったことも、人に会いたくなったことも、世間の動きを知りたくなったことも、別々の出来事ではないのかもしれない。
執筆→思考への集中→仮想時空への長期滞在→思考疲れ→身体を動かしたくなる→街、人、自然、社会へ→現実との再会 そんな循環が起きているように見える。そう考えると、これは「執筆疲れ」というより、生活全体が自らバランスを取り戻そうとしている動きなのかもしれない。
執筆中心から、生活の中の執筆へ
この3ヶ月間は、執筆中心の生活だった。それはそれで、とても面白い時間だった。ただ、これからは少し違ってもいい。運動する。歩く。料理する。人に会う。街を見る。新聞を読む。旅をする。そして、そこから何かを感じたら、また書く。「執筆中心の生活」から、「生活の中に執筆がある状態」へ。そのほうが長く続くような気がする。考えてみれば、書くためには、まず現実と出会わなければならない。現実と出会い、それを身体で受け取り、頭の中で編集し、言葉にして、また現実へ戻る。執筆そのものも、本来は循環なのだろう。この3ヶ月間、思考をずいぶん使った。だから今度は、少し身体の番である。頭は十分に遠くまで旅をした。
しばらくは、身体と一緒に「今ここ」をウロウロしてみようと思う。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。知人他ランチ・喫茶@神保町。休息。4人宴席@銀座。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
