創造性とは、リミッターを外すことなのかもしれない
最近、執筆をしていることもあって、創造性が欲しいと常々思う。もっと新しいことを考えたい。一見関係のないものをつなげたい。自分なりの世界の見方を見つけたい。そんなことを考えていて、ふとサラリーマン時代の自分を振り返った。あの頃、創造性がまったくなかったわけではない。仕事をしていても、「これは面白いな」「こう考えたらどうだろう」「こちらとこちらはつながっているのではないか」と思うことはあった。しかし、そこには明らかにリミットをはめていたように思う。なぜなら、それ以上に大切だったのは、「するべきことを粛々とこなすこと」だったからだ。
サラリーマンに必要だった能力
組織で仕事をしていると、基本的には目的がある。期限がある。
成果物がある。上司や顧客からの期待がある。会議がある。予算がある。だから仕事の基本形は、目的 → 計画 → 実行 → 成果になる。途中で面白いことを思いついたとしても、「それは面白い。でも今やることではない」と横に置く。そして本線へ戻る。考えてみれば、これはかなり高度な能力である。人間の思考は放っておけば、いろいろな方向へ飛んでいく。れを制御して、「今するべきこと」へ注意を戻す。私は長いサラリーマン生活の中で、この能力を相当に鍛えてきたのだと思う。つまり、創造性がなかったのではない。創造性を制御する能力を身につけていた。
ところが創造には「脱線」が必要らしい
卒サラして4年間が経過。最近、自分の思考の動きを観察していると、サラリーマン時代とはかなり違ってきたことに気づく。何かひとつのことを考え始める。すると別のことを思い出す。そこからまた違うテーマへ行く。一見すると脱線である。ところが、その脱線をそのままにしていると、「あれ? このふたつは同じ構造なのではないか」という瞬間がやってくる。最近の私の執筆は、この連続である。損得勘定について考えていたら、進化OS・関係OS・文明OSにつながった。拠点を移動した後の違和感を観察していたら、生活OSという考え方が深まった。人と話した後、なぜひとりで考える時間が長く必要になるのだろうと観察したら、他人から得た情報と自分の人生を照合する作業をしていることに気づいた。最初からそこへ行こうと思っていたわけではない。脱線した先に、発見があった。だとすると、創造のプロセスは、観察 → 違和感 → 連想 → 脱線 → 接続 → 発見なのかもしれない。これは、目的 → 計画 → 実行 → 成果というサラリーマン時代の思考とは、かなり違う。
創造性を高めようとすると、創造性が逃げる?
ここで少し面白い逆説が出てくる。私は今、「もっと創造性が欲しい」と思っている。しかし、この欲求そのものが強くなりすぎると、昔の文明OSが再び動き始める可能性がある。「毎日3時間執筆しよう」「今月中に第2章を完成させよう」「今日は新しいアイデアを5個出そう」目標を決め、計画を立て、進捗を管理する。これは私が長年やってきたことである。そして、かなり得意でもある。ところが、「創造性を成果として獲得しよう」とした瞬間、創造性までサラリーマン仕事になってしまう。これは少し違うのではないか。
創造するのではなく、創造が起きる状態をつくる
最近考えている「状態ファースト」という考え方が、ここでも使えそうだ。創造性も、意志で直接作り出すものではない。むしろ、創造が起こりやすい状態をつくる。そして、あとは待つ。私の場合なら、朝起きた直後の静かな時間。散歩している時間。ヨガや水泳をしている時間。箱根と東京を移動する時間。人と話した後、ひとりになって考えている時間。いつもとは違う場所へ行ったとき。一見すると、どれも「執筆していない時間」である。ところが、その時間に頭の中では何かが動いている。経験と経験がつながる。昔の記憶が呼び出される。昨日聞いた話と、10年前の経験が重なる。身体の感覚と言葉がつながる。そして突然、「ああ、そういうことか」がやってくる。創造とは、机の前で力んで生産するものではなく、こうした内部の動きを邪魔しないことなのかもしれない。
文明OSがかけたリミッター
そう考えると、もうひとつ仮説が浮かんでくる。人間はもともと創造的なのではないか。生命体は、本来かなり探索的である。見る。触る。動く。試す。失敗する。別の方法を試す。子どもを見ているとよく分かる。ところが文明社会で生きるには、それだけでは困る。学校では時間割に従う。会社では役割を果たす。組織では期限を守る。社会では約束を守る。そのため私たちは、探索する力と同時に、探索を止める力を身につけていく。文明OSは、生命体が持っている探索性にリミッターをかける。それによって社会は安定し、組織は動き、成果が積み上がる。私自身、その恩恵を十分に受けてきた。だから文明OSが悪いわけではない。問題は、必要がなくなった後も、リミッターをかけ続けることなのだと思う。
64才、リミッターを少しずつ外す
サラリーマンを卒業して4年間が経過。振り返ると、私がやってきたことは、「自由になること」だけではなかったのかもしれない。長年かけて身につけたリミッターを、ひとつずつ外してきた。思いついたら、少し考えてみる。脱線したら、すぐに本線へ戻らない。予定のない時間を残す。役に立つかどうかを、すぐには判断しない。結論を急がない。分からない状態を、そのまま置いておく。すると、思考が勝手に歩き始める。そして時々、予想していなかった場所へ連れていってくれる。もしかすると、今の私に必要なのは、創造性を身につけることではない。すでに持っているものが動き出せるように、「するべきこと」から少し離れ、リミッターを外すことなのかもしれない。
サラリーマン時代は、思いついても、するべきことへ戻った。卒サラした頃は、するべきことから、自分のしたいことへ移った。そして今は、もう一段先へ進みつつある気がする。何が出てくるか分からない時間を、そのまま許す。これは「人生をきちんと運営する」こととは少し違う。むしろ、ときどき人生を運営する手を緩めてみる。静かにして、観察して、脱線する。そして何かが生まれたら、思考という編集者がそれを拾う。今の私にとっての創造性とは、そんなものなのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。移動準備。箱根峠-昼食@海老名SA-新中野。郵便処理。知人出迎え。迎賓館夜間ライトアップ-夕食@四ツ谷(タイ料理)。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
