余白

先日、天山湯治郷に行った。温泉に入り、ぼーっとする。急ぐ必要もない。次に何かをしなければならないわけでもない。こういうゆったりとした時空に身を置いていると、不思議と思考が深まる。今日も湯につかりながら、「世界モデルと自己モデルに、自己物語という縦軸と、金銭という横軸を入れると、価値が見えてくるのではないか」などと考えていた。なぜ、こういう場所では考えが深まるのだろう。

以前なら単純に、「リラックスしているから」と説明していたと思う。もちろん、それも間違いではない。しかし最近考えている「生活OS」や「状態」という視点から見ると、もう少し違った景色が見えてくる。普段の生活では、思考のかなりの部分が外部への対応に使われている。今日は何をするか。誰に連絡するか。何を調べるか。どちらを選ぶか。何時までに終えるか。思考は忙しい。特にサラリーマン時代はそうだった。外部から次々に課題がやってくる。思考は、それを処理するための道具として働き続ける。

ところが天山湯治郷に来ると、それが急に減る。温泉に入る。座る。景色を見る。また温泉に入る。身体の緊張が下がる。時間の制約が薄くなる。外部からの要求もほとんどない。つまり、身体の緊張が下がる。外部からの要求が減る。時間圧力が下がる。目的行動が減る。すると、思考に「余白」が生まれる。ここで面白いことが起こる。

新しい情報を大量に入れているわけではないのに、以前から頭の中にあったもの同士が、勝手につながり始める。最近の私なら、生命体。身体。生活OS。安心。世界モデル。自己モデル。自己物語。金銭。価値。探索。創造。循環。それぞれ別々に考えていたものが、「あれとこれは同じ構造ではないか」「こちらをこう置けば、全体がつながるのではないか」と再配置されていく。これは、新しく「考えている」というより、すでに頭の中にあるモデルを再編集していると言った方が近い気がする。そう考えると、余白の意味が変わってくる。余白とは、何もしない時間ではない。世界モデルや自己モデルを更新するための時空なのではないか。人間は現実と出会い続けている。人と話す。街を歩く。旅をする。本を読む。仕事をする。失敗する。歳を取る。身体が変化する。お金の状況も変わる。そのたびに大量の情報が自分の中へ入ってくる。しかし、情報が入っただけでは、自分のモデルは十分には更新されない。どこかで、「あれはどういう意味だったのだろう」と照合する時間が必要になる。最近、人と会った後に、その人から得た情報と自分の人生を照合する時間が以前より長くなっている。

これも同じなのだろう。現実と出会う。いったん持ち帰る。余白の中で編集する。世界モデルが少し変わる。自己モデルも少し変わる。すると、過去の出来事の意味まで変わってくる。ここで自己物語も書き換わる。「あの37.5年間は何だったのか」「なぜ60才で卒サラしたのか」「なぜ二拠点生活を始めたのか」「なぜ今、変化や非日常を求め始めているのか」事実そのものは変わらない。しかし現在の自己モデルが変わると、過去の意味づけが変わる。記憶という素材を、現在の自分が再編集している。これが自己物語なのかもしれない。そして自己物語が変わると、「では、これからどう生きたいのか」という未来も少し変わる。さらに最近は、ここに「金銭」という横軸も見えてきた。残された時間を何に使うのか。お金を何に交換するのか。身体なのか。経験なのか。関係なのか。旅なのか。安心なのか。創造なのか。自己物語という縦軸と、金銭という横軸を重ねると、「自分は何を大切にして生きたいのか」という価値が浮かび上がってくる。

面白い。そして、こういうことを考えているのが天山湯治郷なのである。ここでひとつ気づく。私は「思考を深めよう」と頑張っているわけではない。むしろ逆だ。温泉に入っている。ぼーっとしている。何もしない時間を過ごしている。それなのに、考えがつながっていく。だとすれば、深い思考も、意志で作るというより、状態から生まれるのではないか。これは、これまで考えてきた、「人は意志ではなく状態で動く」という仮説と同じ構造である。創造性が欲しいなら、「創造しよう」と力むのではない。創造が自然に起きる状態を作る。私の場合、そのひとつが天山湯治郷なのだろう。温泉という身体。急ぐ必要のない時間。自然に囲まれた空間。人間関係から少し離れた静けさ。生活OSで言えば、身体・時空・関係が一時的に「静」の方向へ整う。すると、その静けさの中で、頭の中の世界モデルや自己モデルが動き始める。だから最近、「余白」という言葉の意味が少し変わってきた。余白とは、予定が入っていない空白ではない。休息だけでもない。余白とは、現実との出会いによって得たものを、自分の世界モデルへ組み込むための時間なのかもしれない。現実と出会う。余白を持つ。モデルを更新する。また現実へ出ていく。そして、また余白へ戻る。現実 → 余白 → 編集 → 更新 → 探索 → 現実。ここにも循環がある。以前から自分の生活イメージとして使っている、静 → 動 → 静とも重なる。動いて世界と出会う。静に戻って編集する。そして更新された自分で、また世界へ出ていく。そう考えると、温泉でぼーっとしている時間も、決して「何もしていない時間」ではない。むしろ人生後半においては、とても大切な時間なのかもしれない。今日も天山湯治郷で湯につかる。何かを考えようとはしない。ただ、ゆったりとした時空に身体を置いてみる。すると頭の中では、世界と自分の地図が、静かに描き直されている。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。胃カメラ-買物-昼食(寿司)-喫茶。料理。夕食。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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