人間の歴史を、「生命体と世界のつながり方」という視点から眺めてみると、面白い変化が見えてくる。
もともと生命体は、世界と直接つながっていた。腹が減れば食べ物を探す。寒ければ暖をとる。危険を感じれば逃げる。喉が渇けば水を探す。生命体 ⇄ 世界とても単純な関係である。
もちろん人間も、長い間この基本構造の中で生きてきた。ところが人類は、世界との間にさまざまなものを挟むようになった。大きく眺めると、こんな流れになるのではないだろうか。
直接接続→道具による接続の拡張→言語による世界の記号化→貨幣による接続の抽象化→情報による接続の仮想化→AIによる接続の代理化
道具は、身体を拡張した
最初に入ってきたのは道具だった。石器を使えば、素手ではできないことができる。火を使えば、食べ物を調理し、寒さをしのぎ、外敵から身を守ることができる。農具を使えば、人間の身体能力を超えて土地を耕すことができる。道具は生命体と世界の間に入った。しかし、この段階ではまだ世界との直接的な接触は強く残っている。斧を使って木を切る人は木の前にいる。鍬を使って畑を耕す人は土の上にいる。道具は世界から人間を遠ざけたというより、世界とつながったまま、人間の能力を拡張したのである。
言語は、世界を記号化した
情報の前に、人間はもうひとつ大きな媒介層を手にしていた。言語である。言語を獲得したことで、人間は目の前にないものを扱えるようになった。「あそこに獲物がいる」「昨日、川が増水した」「明日は山へ行こう」。現実そのものがそこになくても、言葉によって現実を呼び出し、他者と共有することができる。これは大きな転換だった。世界に直接触れなくても、世界について知り、考え、伝えることができるようになったからである。言語は、世界を記号に変えた。そして文字が生まれ、印刷が生まれ、写真、映像、通信、インターネットへと進むにつれて、その記号化された世界は生命体の外側に巨大に蓄積されていった。それが、現代の私たちを取り巻く「情報」という層につながっている。
貨幣は、世界との関係を抽象化した
貨幣が広がると、世界とのつながり方が大きく変わった。自分で米を作らなくてもいい。別の仕事をして貨幣を受け取り、その貨幣で米を買えばいい。生命体 → 労働 → 貨幣 → 食べ物という迂回路ができる。やがて住居も、衣服も、移動も、教育も、医療も、娯楽も、多くのものが貨幣を介して手に入るようになった。これは途方もなく便利な仕組みである。同時に、人間は自分の生命を支えている具体的な世界から少しずつ離れていった。食べ物を得ることと、食べ物を作ることは別の行為になった。生きるために必要なものが、「いくらなのか」という共通尺度に変換されていった。世界との関係が抽象化されたのである。
情報は、世界との関係を仮想化した (←言語が世界を記号化)
そして現代になると、生命体と世界の間に「情報」が巨大な層として入ってきた。レストランへ行く前に検索する。旅行へ行く前に動画を見る。商品を買う前にレビューを読む。人に会わなくてもSNSで近況を知る。世界に触れて情報を得るだけではなく、情報に触れてから世界へ向かうようになった。さらに面白いことに、世界へ向かわなくても済む場面まで増えた。外国へ行かなくても外国の映像を見ることができる。美術館へ行かなくても作品を見ることができる。人と直接会わなくてもコミュニケーションができる。私たちは「現実の世界」だけではなく、その写像である「情報の世界」の中でも暮らすようになった。世界との接続が仮想化されたのである。
そしてAIは、接続を代理し始める
ここにAIが登場した。これまで情報は、基本的には人間が読んで、考えて、判断するものだった。ところがAIは、情報を集め、整理し、比較し、要約し、シミュレーションし、提案する。さらにAIエージェントが進めば、予約したり、購入したり、連絡したりと、人間に代わって行動する領域まで広がっていくだろう。すると、生命体 → AI → 世界という新しい接続が生まれる。AIは単なる情報ではない。生命体と世界の間に立ち、世界との接続そのものを一部代理する存在になりつつある。
文明とは「媒介層」を厚くしてきた歴史なのかもしれない
こうして並べてみると、ひとつの大きな流れが見えてくる。道具は身体を拡張した。言語は世界を記号化した。貨幣は交換を抽象化した。情報は認知する世界を広げ、仮想化した。そしてAIは、思考や判断、さらには行動の一部まで代理し始めている。つまり文明とは、生命体と世界のあいだに、さまざまな「媒介層」を積み重ねてきた歴史と見ることもできる。もちろん、これは文明批判ではない。媒介層が厚くなったからこそ、人間は自分の身体だけでは到底届かない世界とつながれるようになった。東京にいながら世界中の出来事を知り、遠く離れた人と話し、世界中の商品を買い、膨大な知識にアクセスできる。文明は「世界との接続」を弱めたのではない。むしろ、接続可能な世界を爆発的に広げたのである。ただ、その一方で別のことが起きた。世界との直接接続の比率が下がった。ここが重要なのだと思う。
昔の接続が消えたわけではない
この歴史は、古い接続方法から新しい接続方法へ単純に置き換わった歴史ではない。すべて現在も残っている。私たちは歩けば、世界と直接つながる。包丁を使えば、道具を介して世界とつながる。買い物をすれば、貨幣を介して世界とつながる。スマホを見れば、情報を介して世界とつながる。AIに相談すれば、AIを介して世界とつながる。つまり現代人は、人類史上もっとも多くの「世界との接続方法」を持っている。問題は、どれを使うかである。便利な媒介層ばかりを使っていると、生命体としての最も古い接続、生命体 ⇄ 世界が細くなっていく。
なぜ今、料理や散歩や運動が気になるのか
そう考えると、最近自分が料理、散歩、運動、家庭菜園といったものに惹かれる理由も少し違って見えてくる。料理では、食材を触る。散歩では、街を歩く。運動では、身体そのものを使う。家庭菜園では、土や植物や天候と付き合う。どれも特別なことではない。むしろ人類が昔からやってきたことばかりである。しかし、情報やAIという媒介層が急速に厚くなる時代には、こうした行為が別の意味を持ち始める。生命体と世界を直接つなぎ直す行為なのである。
だから、AI時代に必要なのは文明から降りることではないのだと思う。貨幣も使う。情報も使う。AIも使う。その恩恵を十分に受けながら、ときどき媒介層を外す。歩く。触る。食べる。人と会う。身体を動かす。目の前の世界を見る。文明が進めば進むほど、そんな当たり前のことの意味が大きくなるのかもしれない。
人間の本業は、世界と直接出会うこと。最近考えているこの言葉が、また少し違って見えてきた。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ゴミ捨て-ゴルフ練習-昼食(寿司)-スタバ-買物。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
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