創造性

最近、別々のふたつのランチで「創造性」という言葉を使った。相手は現役のサラリーマン。男女それぞれだった。ところが、どちらも反応が意外なほど薄かった。別に否定されたわけではない。「創造性なんて必要ない」と言われたわけでもない。ただ、言葉があまり引っ掛からないのである。話題としてスッと通り過ぎていく。

私は最近、執筆をしていることもあって、「創造性」というものをかなり意識している。どうすれば新しい考えが生まれるのか。なぜ環境を変えるとアイデアが出てくるのか。なぜ人と話した後、ひとりになって考える時間が必要なのか。なぜ既存のモデルの中で考え続けていると、前に進まない感じがするのか。そんなことを日常的に考えている。だから、「創造性」という言葉にあまり反応がないこと自体が、逆に私には引っ掛かった。

そういえば、私もそうだった

少し考えて、サラリーマン時代の自分を思い出した。私にも創造性がなかったわけではない。新しい企画を考えたり、問題解決の方法を工夫したりすることはあった。しかし、「もっと創造的でありたい」と日常的に考えていたかといえば、そんなことはなかった。むしろ意識していたのは、何をするべきか。いつまでにするのか。誰と調整するのか。どうすれば失敗しないか。期待されている成果は何か。そんなことだった。会社という場所では、それが合理的だった。役割があり、目標があり、期限があり、評価がある。そこで求められるのは、役割 → 課題 → 実行 → 成果 → 評価という回路をきちんと回すことである。創造性が不要なのではない。しかし、創造性はこの回路の中に必要な分だけ組み込まれる。つまり、創造性そのものを目的にする必要がない。私自身も37年間半のサラリーマン生活の中で、その環境にかなり適応していたのだと思う。

創造性がなくなるのではない

だから、「サラリーマンになると創造性がなくなる」と言ってしまうと、たぶん違う。もっと正確には、創造性を常時起動しなくても生きられるように、自分が最適化されていく。のではないか。会社員には会社員として必要な能力がある。正確さ。調整力。再現性。責任感。期限管理。組織内コミュニケーション。期待される役割を読み取る力。限られた注意資源をどこに使うかと考えれば、当然こちらが優先される。創造性は消えたのではない。注意資源の配分先から外れていく。これは男女にはあまり関係がないのかもしれない。今回、男性と女性の双方で似た反応だったことも興味深かった。個人の資質というより、長期間置かれている環境の影響なのではないか。

創造性は、別の回路から生まれる

最近の自分を観察していると、創造性が生まれる回路は、サラリーマンの仕事の回路とはかなり違うように感じる。たとえば、余白 → 観察 → 違和感 → 問い → 組み替え → 試すという流れである。最初から答えがあるわけではない。そもそも課題さえ決まっていない。現実を見ていて、「あれ?」と思う。今回もそうだ。ランチで「創造性」という言葉を使った。相手の反応が薄かった。そこで終われば何も起きない。しかし、「なぜだろう?」と引っ掛かった瞬間に、問いが生まれる。自分のサラリーマン時代と照合する。会社という環境について考える。注意資源という概念を持ってくる。すると、「サラリーマンは創造性を失うのではなく、創造性に注意資源を配分しなくなるのではないか」という仮説が生まれる。これ自体が、小さな創造のプロセスなのだろう。

「考える」と「創造する」は少し違う

ここで、もうひとつ気づく。サラリーマン時代も、私はかなり考えていた。むしろ毎日大量に考えていた。だから、考える量が多い=創造的ではない。既存の枠組みの中で、どうすればうまくいくかを考える。これは非常に重要な思考である。しかし創造は、そこから少し外れる。「そもそも、この枠組みでいいのか?」「別の見方をするとどうなるのか?」「自分が当然だと思っている前提は、本当に当然なのか?」と、モデルそのものを動かし始める。言い換えるなら、サラリーマンモードは、与えられた世界の中でうまく動く。一方、創造モードは、世界の見方そのものをつくり直す。

もちろん現役サラリーマンでも創造モードを頻繁に使う人はいる。研究、企画、経営、デザインなど、むしろそれを仕事にしている人もいる。だから職業による単純な二分ではない。問題は、日常のどちらに注意資源を多く配分しているか、なのだと思う。

卒サラ後に起きた変化

私は卒サラして4年間が経った。最近になってようやく「サラリーマンモードが抜けた」と感じ始めている。しかし、そこで終わりではなかった。その後も自分が変化している。最近「創造性」という言葉が気になって仕方がないのも、そのひとつなのかもしれない。

するべきことが減った。時間に余白ができた。東京、箱根、シンガポールと環境を変える。歩く。人と会う。ひとりになる。本を読む。そして書く。すると、以前なら通り過ぎていた小さな違和感が引っ掛かるようになった。現実との接触から問いが生まれる。問いを持ち帰って考える。自分の世界モデルが少し変わる。そしてまた現実を見る。現実 → 違和感 → 問い → モデル更新 → 現実という循環が回り始めた。もしかすると、私が欲しがっている「創造性」とは、特別なアイデアを次々と生み出す才能ではないのかもしれない。現実と出会い続け、自分のモデルを更新し続ける力。そう考えると、ずいぶん身近になる。

「穏やかで活発」と「創造性」

そしてこれは、最近考えている「穏やかで活発な状態」ともつながってくる。心は穏やかである。しかし世界との接触は多い。歩く。見る。会う。話す。読む。旅をする。身体を動かす。そこで何かに引っ掛かる。持ち帰って考える。書いてみる。また世界へ戻る。静 → 動 → 静。この往復の中から、創造性が生まれる。だとすれば、創造性は「頑張って絞り出すもの」ではないのかもしれない。自分を創造的にしようとするより、創造性が自然に立ち上がってくる生活をつくる。こちらの方が、今の私にはしっくりくる。ふたつのランチで「創造性」という言葉への反応が薄かった。ほんの小さな出来事だった。しかし、今の私にはそれが引っ掛かった。そして、その「引っ掛かり」こそが創造性の入口だった。そう考えると少し面白い。創造性とは、何かを生み出す能力である前に、世界に対して「あれ?」と思える状態を保つことなのかもしれない。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ジム-昼食-ジム。買物。夕食。夕寝。阪神タイガース観戦(引き分け)。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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