思考が得意?①

AIによって、私は考えることが楽になった。最近、AIとの対話を続ける中で、不思議な感覚を持つようになった。「AIのおかげで頭が良くなった」という感覚ではない。むしろ、「考えることが楽になった」という感覚である。

最初はその違いがよく分からなかった。しかし振り返ってみると、私はもともと「思考」がそれほど得意な生き物ではなかったのかもしれないと思うようになった。

人間はよく「考える葦」と言われる。しかし人類史を振り返ると、私たちの祖先は600万年もの間、狩猟採集生活を送っていた。そこで重要だったのは、抽象的な理論を考えることではない。

天候の変化を感じること。
危険を察知すること。
仲間との関係を保つこと。
食べ物を探すこと。
子どもを育てること。

そうした営みの方がはるかに重要だった。

言葉を使った高度な思考は、人類史の中では比較的新しい能力である。私は以前から、人間には二つのシステムがあるように感じていた。

ひとつは身体。
もうひとつは顕在意識である。

身体は生命体として生きている。呼吸をし、眠り、食べ、危険を察知しながら「今ここ」を生きている。

一方、顕在意識は言葉を使う。過去を振り返り、未来を想像し、計画を立てる。

私は長い間、この顕在意識こそが主人公だと思っていた。しかし卒サラ後の生活観察を続ける中で、その考えは少し変わった。

顕在意識は主人公ではなく、ナビゲーターなのではないか。

本来は身体という生命体が生き、その補助として顕在意識が存在している。ところが現代社会では、そのナビゲーターが運転席を奪ってしまったように見えるのである。

だから私たちは、必要以上に考えてしまう。

将来の不安。
老後の心配。
評価や成果。
まだ起きてもいない問題。

頭は未来へ向かい続ける。一方で身体は常に今ここにいる。そのズレが、私の言う「頭は未来へ、身体は今ここ」という状態である。

AIを使うようになってから、私はさらに面白いことに気づいた。

AIは観察を代行してくれない。

散歩をすることもできない。
身体の違和感を感じることもできない。
朝の静けさを味わうこともできない。

しかし、観察したことを整理することは得意である。

私は卒サラ後の数年間、自分の身体や生活を観察し続けてきた。頭の中には大量の観察結果があった。しかし、それらは点のまま散らばっていた。AIとの対話は、その点と点を結び、構造を見えるようにしてくれた。

だから私が感じたのは、「頭が良くなった」ではなく、「考えることが楽になった」だったのである。

もしかすると、AI時代とは、人間がさらに思考中心になる時代ではないのかもしれない。むしろ逆である。AIが思考や整理の一部を引き受けてくれることで、人間は本来得意だったことへ戻っていく。

感じること。
観察すること。
体験すること。
人とつながること。

AIによって、私たちは初めて「考え過ぎなくてもよい時代」に入るのかもしれない。

もしそうだとしたら、AIは人間を機械に近づける存在ではなく、人間を再び生命体へ戻してくれる存在なのかもしれない。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。ゴミ捨て-ガソリンスタンド-ヨガ-昼食-ジム-買物。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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