最近、お金について考えていて、ふと思った。
お金は、言語に次ぐ人類の大発明なのではないか。
もちろん、言語もお金も、誰か一人がある日突然発明したものではない。長い人類史の中で少しずつ生まれ、共有され、発達してきた仕組みである。
それでも、このふたつが人類を大きく変えたことは間違いないように思う。
なぜなら、言語は「意味」を交換可能にし、お金は「価値」を交換可能にしたからである。
言語は「意味」を交換可能にした
言語が生まれる前から、人間は世界を感じていた。暑い。寒い。怖い。心地よい。腹が減った。目の前には動物がいる。川がある。食べられる木の実がある。しかし、自分が感じたこと、自分が見つけたことを、そのまま他人の頭の中へ移すことはできない。そこで人間は、現実を「音」や「言葉」という記号に置き換えるようになった。
「あそこに獲物がいる」「この実は食べられる」「明日、川の向こうへ行こう」
言語によって、自分の中にある意味を他者へ渡せるようになった。しかも、言語が扱えるのは「今ここ」にあるものだけではない。昨日の出来事を話せる。明日の計画を相談できる。ここには存在しない場所について語ることもできる。言語によって、人間は「今ここ」の現実を超えて、意味を共有できるようになった。これは途方もなく大きな変化だったと思う。
お金は「価値」を交換可能にした
そして、お金にも似た働きがある。お金が生まれる以前から、もちろん価値は存在した。食物には価値がある。道具にも価値がある。住む場所にも価値がある。人の労働や技術にも価値がある。しかし、それぞれはまったく違うものである。
魚と靴。米と家。散髪と農作業。これらを直接交換しようとすると、とても難しい。そこで人間は、異なる価値を共通の尺度へ置き換える仕組みをつくった。
それがお金である。
魚も、靴も、散髪も、労働も、「いくら」という共通の尺度で表せるようになった。つまり、お金は、異なる価値を交換可能にするための共通言語とも言える。
言葉もお金も「現実そのもの」ではない
ここで面白いことに気づく。言葉もお金も、現実そのものではない。「リンゴ」という言葉は、リンゴではない。その言葉を何度口にしても、腹は満たされない。同じように、「100円」という数字も、リンゴそのものではない。100円は食べられない。しかし、人間同士がその記号の意味を共有しているから、100円をリンゴと交換することができる。言葉もお金も、人間が現実を扱いやすくするためにつくった「記号」なのである。
だから、こんな対比ができる。言語は「意味」の共通媒体である。お金は「価値」の共通媒体である。人間は、意味を記号化することで巨大な知識世界をつくり、価値を記号化することで巨大な経済社会をつくった。
言語もお金も「流れる」ことで働く
さらに興味深いのは、どちらも流れることで本来の力を発揮することである。言葉は、自分の頭の中にあるだけでは社会を動かさない。誰かに話す。誰かが聞く。そこから新しい考えが生まれる。それがまた別の誰かへ伝わる。言語は、人から人へ意味を循環させる。お金も似ている。私がお金を使って食事をする。そのお金は店の売上になる。店員の給料になり、生産者や物流業者へ渡る。受け取った人が、また別の何かに使う。そうやって、お金は人から人へ価値を媒介しながら社会を巡っていく。
だから私は最近、お金は「貯めるもの」である以前に、「価値を循環させる媒体」なのではないかと思うようになった。
人類は二つの巨大な循環をつくった
こうして考えると、人類史が少し違って見えてくる。人類は言語によって、意味を個人の頭の中から外へ取り出した。そして、その意味を他者と共有し、世代を超えて蓄積できるようになった。さらに、お金によって、異なる種類の価値を共通の尺度に置き換え、人間関係や地域を超えて交換できるようになった。
つまり人類は、言語によって「意味」を循環させ、 お金によって「価値」を循環させることに成功した。
このふたつの巨大な循環装置が、人間社会を飛躍的に拡大させたのではないだろうか。
そして文字が生まれると、意味は時間を超えて流通するようになった。貨幣や金融が発達すると、価値も時間と空間を超えて流通するようになった。こうして文明は巨大化していった。
文明とは「循環装置」なのかもしれない
ここまで考えて、もう一つの問いが浮かんでくる。そもそも文明とは何なのだろう。道路は、人やモノを循環させる。市場は、商品とお金を循環させる。学校は、知識を循環させる。メディアは、情報を循環させる。金融は、お金を循環させる。インターネットは、情報を地球規模で循環させる。そして生成AIは、人類が蓄積してきた言語や知識を組み替え、新たな意味として再び人間へ返している。
そう考えると、文明とは、人間がつくり続けてきた巨大な循環装置の集合体なのかもしれない。言語も、お金も、その中心にある。そして重要なのは、どちらも主人公ではないということだ。言葉のために人間が生きているのではない。お金のために人間が生きているのでもない。どちらも、人間という生命体が生き、他者とつながり、協力するためにつくり出した道具である。
言語は意味を運ぶ。お金は価値を運ぶ。その循環の中心で生きているのは、あくまで人間という生命体なのである。
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