人間は思考を得意としていないのかもしれない。昨日、ジムで運動をしている最中、ふとひとつの考えが浮かんだ。
「人間は思考を得意としていないのかもしれない」
少し意外な言葉だった。なぜなら私たちは普段、人間といえば「考える存在」だと思っているからである。学校でも仕事でも、「よく考えること」は良いことだと教えられる。私自身も長い間そう思っていた。
しかし、その瞬間、これまでの生活観察で見えてきたことが一本の線でつながった気がした。
卒サラ後の私は、自分自身の生活を観察し続けてきた。
睡眠を整える。
散歩をする。
自然に触れる。
人と話す。
余白をつくる。
身体を動かす。
そうしたことを続ける中で、人生は少しずつ変わっていった。
興味深いのは、その変化が「もっと考えること」によって起きたわけではなかったことである。
むしろ逆だった。
考え続けている時よりも、散歩をしている時、ヨガをしている時、料理をしている時、運転している時、そして今回のようにジムで身体を動かしている時に、大切な気づきが現れることが多かった。
振り返ると、人類の歴史の大半は狩猟採集生活だった。
そこで重要だったのは、抽象的な理論を考えることではない。
危険を察知すること。
仲間と協力すること。
自然の変化を感じ取ること。
食べ物を探すこと。
そうした能力の方が、生き延びるためにははるかに重要だったはずである。
そう考えると、人間は思考するために設計された存在というより、まず観察しながら生きる存在だったのではないかと思えてくる。
もちろん思考は重要である。
しかし思考は主人公ではなく、補助役なのかもしれない。
私は以前から、顕在意識はナビゲーターのようなものだと考えている。ナビゲーターは進む方向を示してくれる。しかし実際に生きているのは身体である。ところが現代社会では、いつの間にかナビゲーターが主人公になってしまった。
将来を心配する。
成果を求める。
評価を気にする。
効率を追求する。
頭は未来へ向かい続ける。一方で身体は常に今ここにいる。
私は本書の中で、「頭は未来へ、身体は今ここ」という補助線を引いたが、その背景にはこうした構造があるように思う。
最近はAIとの対話も続けている。その中で感じるのは、AIによって「頭が良くなった」というより、「考えることが楽になった」という感覚である。
AIは観察を代行できない。
散歩もできない。
身体の違和感も感じられない。
自然の心地よさも味わえない。
しかし整理、比較、要約、構造化は驚くほど得意である。だからAIは、思考の一部を引き受けてくれる。
その結果、人間は再び観察へ戻れるのかもしれない。
もしそうだとしたら、AI時代とは人間がさらに頭脳化する時代ではなく、本来の生命体としての感覚を取り戻す時代なのかもしれない。
少なくとも私自身は、そう感じ始めている。
そして、その気づきが机の前ではなく、ジムで身体を動かしている最中に現れたこと自体が、何より象徴的だったのである。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。昼食。執筆。夕食。執筆。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
