運転≒ゴルフスイング

運転しているのは誰だ?――箱根旧街道で「思考の部分関与」を感じた。

天山湯治郷へひとりで行った。温泉に入り、昼食を食べ、休息室で昼寝をして、喫茶室でコーヒーを飲んだ。自宅で飲むコーヒーより、なぜか心が落ち着いている。同じ自分、同じコーヒーなのに、場所を変えるだけで状態が違う。日常から少し切り離された空間に身体を置く。温泉に入る。ぼんやりする。コーヒーを飲む。「心を落ち着かせよう」と考えたわけではない。身体を置く場所を変えたら、結果として心が落ち着いた。最近考えている「状態ファースト」とは、こういうことなのかもしれない。そして帰り道、もうひとつ面白いことに気づいた。

箱根旧街道を15km運転する

天山湯治郷から自宅まで、箱根旧街道を15kmほど運転した。カーブの多い道である。せっかくなので、自分がどう運転しているのかを少し観察してみた。すると不思議なことに気づく。私は確かに運転している。ところが、「右手をこれだけ動かそう」「アクセルを少し戻そう」「ここでブレーキをこれだけ踏もう」などとは、ほとんど考えていない。カーブが来れば自然にハンドルを切る。対向車が来れば少し左へ寄る。下り坂になればアクセルを緩める。前の車との距離が縮まればブレーキを踏む。ミラーを見る。標識を見る。歩行者を見る。これだけ複雑なことをしているのに、思考が一つひとつ指示を出している感じがしない。むしろ、道を見る→身体が反応する→車が動く→状況が変わる→また身体が反応するという循環が連続している。私はその流れの中にいる。

思考は何をしているのか

では、運転に思考は必要ないのだろうか。もちろん、そんなことはない。「この先は急カーブだから速度を落とそう」「今日は路面が濡れているから慎重に行こう」「次の交差点を右へ曲がろう」こういう場面では思考が働く。つまり思考は、予測する。方針を決める。注意を向ける。例外に対応する。しかし思考が運転のすべてを仕切っているわけではない。ここで、最近考えていた言葉がしっくりきた。思考は「部分関与」している。

ゴルフと同じだった

これはゴルフスイングをしているときに感じることとよく似ている。クラブを振るとき、肩を何度動かして、腰を何度回して、右肘を何センチ下げて――などと逐一考えていたら、おそらくまともに振れない。実際のスイングでは、身体のいろいろな部分が相互に反応しながら、ひとつの「動き」が生まれる。思考は、「もう少し右へ」「力を抜こう」「この感じだ」といった形で部分的に関与する。しかし、スイングそのものを作っているのは思考ではない。運転も同じだった。

「私が身体を動かしている」のだろうか

私たちは普通、「私が車を運転した」「私がゴルフクラブを振った」と言う。もちろん、それで日常生活には何の問題もない。しかし、その「私」とは何なのだろう。もし「私=頭の中で言葉を使って考えている存在」だとすると、運転を観察しただけでも説明がつかなくなる。実際に運転しているのは、視覚、聴覚、身体感覚、平衡感覚、過去の経験、学習された動作、注意、予測、感情、そして思考。それらが一体となったものだ。つまり、「思考する私」が身体を操作しているのではない。むしろ、「私という生命体」が世界とのやり取りの中で動き、思考もその活動の一部として関与している。そう考えた方が、実感に近い。

思考は「司令塔」なのか

人間は言葉を獲得し、思考する能力を大きく発達させた。だからいつの間にか、思考=自分と思いやすくなったのではないだろうか。頭の中には常に言葉が流れている。「今日は何をしよう」「あの問題をどうしよう」「将来どうなるだろう」その声はとても目立つ。目立つから、自分を動かしている司令塔のように感じる。

しかし運転してみると、そうでもない。生命体は思考からの指示を待たず、膨大なことを処理している。むしろ思考が運転の細部に介入しすぎれば、動きはぎこちなくなる。思考には、思考に向いた仕事がある。身体には、身体に任せた方がよい仕事がある。だから重要なのは、思考をなくすことではなく、思考を適切な場所に置くことなのだろう。

今日一日を振り返ってみる

天山湯治郷で温泉に入った。身体が緩んだ。喫茶室でコーヒーを飲んだ。日常から切り離された場所に身を置いたことで、思考も静かになった。そして箱根旧街道を運転して帰った。そこで今度は、自分という生命体が世界とやり取りしながら動いていることに気づいた。考えてみれば、(温泉 →) 身体、(コーヒー →) 余白、(運転 →) 世界との直接的なやり取り、(観察 →) 気づき、(思考 → )言語化と、ひとつの循環になっている。どれかひとつだけではない。身体も必要だ。世界との接触も必要だ。余白も必要だ。そして思考も必要だ。ただし、思考が全部を仕切る必要はない。

思考は生命体の一員だった

これまで私は、どこかで、思考する自分が、身体を使って世界を生きているというイメージを持っていたように思う。しかし最近は、順序が逆なのではないかと思い始めた。まず生命体がある。生命体は世界と接触し、感じ、反応し、動いている。その巨大な循環の中に、思考という非常に優秀な機能が加わっている。思考は未来を想像できる。世界をモデル化できる。計画を立てられる。言葉にできる。しかし、それは生命体全体の活動の一部分なのだ。箱根旧街道を走りながら、それを身体で感じた。思考は司令塔ではなかった。かといって、邪魔者でもない。思考は、生命体という大きなチームの一員だった。そう考えると、「自分」というものの見え方が、少し変わってくる。

自分とは「生命体として世界に参加している存在」なのかもしれない。その中で思考は補助的に働いているようにみえる。つまり、生命体の大きな循環の中で、思考は未来を想像する、世界をモデル化する、言葉にする、計画を立てるという高度な機能を提供しているが、それはあくまで 生命体の活動の一部にすぎない。つまり、思考は「主人公」でも「敵」でもなく、生命体の巨大なオーケストラの中のひとつの楽器のようだ。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ゴミ捨て-天山湯治郷(温泉-昼食(とんかつ)-休息-温泉-喫茶)。夕食。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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