言葉も、概念も、構造も、すべて圧縮技術だった
SNSをあまり見ない。それでも時々読むと、意外なことに気づく。長い文章を書ける人が、結構多い。日常の出来事、旅行、仕事、家族、自分の考え。かなりの長文を、普通の人がすらすらと書いている。考えてみれば不思議ではない。私たちは学校教育を受け、仕事ではメールを書き、報告書や資料を作り、長年にわたって言葉を使ってきた。しかも今はAIがある。「文章を書く」という行為そのものは、これからますます容易になるだろう。では、書くことのもっと上流では、何が起きているのだろう。そんなことを考えていて、一つの流れが浮かんだ。現実 → 言葉 → 概念 → 構造である。
現実を、まず言葉にする
現実は、そのままでは情報量が多すぎる。たとえば、いま滞在しているシンガポールを歩く。暑い。人が走っている。高層住宅がある。運河がある。地下鉄が走っている。スーパーの商品が日本とは違う。街によって住んでいる人の雰囲気も違う。視覚、音、匂い、温度、身体感覚。現実には、ほとんど無限ともいえる情報がある。ところが、ふと、「シンガポールにいると、思考の矢印が自分ではなく外に向く」と言葉にする。膨大な現実の中から何かを切り取り、ひとつの文章にした。これだけでも、ものすごい圧縮である。言葉とは、現実を持ち運べる大きさにする技術なのかもしれない。
言葉を束ねると、概念になる
さらに、似たような経験が重なってくる。東京から箱根へ行く。箱根から東京へ戻る。シンガポールで一週間暮らしてみる。場所が変わると、身体も気分も思考も変わる。一つひとつについて書けば、何千字にもなる。ところが私は、それらを「場替え」という言葉で捉えるようになった。ここでは「場替え」は単なる単語ではない。たくさんの経験や観察を束ねた概念になっている。「生活OS」もそうだ。身体、時間、空間、関係。日々の生活について考えてきた大量の経験を、「生活OS」という概念に圧縮した。概念とは、たくさんの言葉や経験を、ひとつの箱に収納する技術なのだろう。
構造は「関係」を圧縮する
そして、その先に構造がある。たとえば、安心、状態、意欲、行動、成果。それぞれは概念である。しかし、安心 → 状態 → 意欲 → 行動 → 成果と並べると、意味が変わる。単なる概念の集合ではなくなる。「それぞれが、どのようにつながっているのか」という関係が見えてくる。これが構造なのだと思う。言葉が現実を圧縮し、概念が多数の経験や言葉を圧縮するものだとすれば、構造は概念同士の関係を圧縮する技術なのだろう。だから構造をひとつ持つと、非常に多くのことを説明できる。仕事にも当てはまる。健康にも当てはまる。老後にも、夫婦関係にも、運動習慣にも当てはまる。ひとつの構造が、大量の個別事例を持ち運べるようになる。
さらに圧縮すると「原理」になる
そう考えると、もう一段上がありそうだ。現実 → 言葉 → 概念 → 構造 → 原理である。複数の構造に共通するものまで圧縮すると、原理になる。私が最近よく考えている、「人は意志だけでなく、状態によって動く」も、その一つかもしれない。運動するか。人に会うか。料理するか。外へ出るか。何かを書こうと思うか。それぞれ別の問題に見えるが、その背後には「状態」がある。多数の現象や構造を、ひとつの短い言葉で説明できる。圧縮率はさらに高くなる。
ただし、圧縮すると現実を失う
ここには危険もある。圧縮とは、情報を捨てることでもあるからだ。「日本人はこうだ」「高齢者はこうだ」「人間とはこういうものだ」圧縮率を上げれば上げるほど、文章は鮮やかになる。しかし、現実から離れる危険も大きくなる。だから、構造や原理を作ったら、もう一度現実へ戻る必要がある。現実 → 言葉 → 概念 → 構造 → 原理 → 現実 現実を観察する。言葉にする。概念にする。構造を見つける。原理らしきものを考える。そして、その原理を持ってもう一度現実を見る。「本当にそうだろうか?」と確かめる。違っていれば修正する。だから思考とは、一直線に抽象化していく作業ではない。現実と抽象の間を往復する運動なのだと思う。
AI時代、人間はどこを担うのか
ここまで考えると、AIとの関係も面白くなる。AIは言語化が非常に得意だ。概念化もできる。複数の概念をつないで構造を作ることも得意になってきた。つまり、言葉 → 概念 → 構造の部分は、AIによって猛烈に加速する。では、人間は何をするのか。私はむしろ、その前後が重要になるのではないかと思う。最初にあるのは、現実だ。街を歩く。人と話す。料理する。身体を動かす。暑さを感じる。違和感を覚える。そして、「おや?」と思う。これは、実際に生きている人間の側から始まる。AIに言葉や構造を展開してもらったら、それを持ってもう一度現実へ戻る。「なるほど。本当にそうなっているだろうか」と自分の目と身体で確かめる。
だからAI時代には、「文章を書けるか」という能力の希少性は、相対的に下がっていくのかもしれない。それよりも、何を見るか。何に「おや?」と思うか。何をAIに投げるか。返ってきた構造を、どう現実で確かめるか。こちらの方が重要になってくる。今回のシンガポール滞在も、振り返ればその繰り返しだった。街を歩いて、「おや?」と思う。AIに聞く。言葉になる。概念になる。構造が見えてくる。そして翌日、また街へ出る。すると昨日までとは少し違って、現実が見える。現実を拾い、言葉で切り取り、概念に圧縮し、構造としてつなぐ。そして、その構造を持って再び現実へ戻る。もしかすると、これが「考える」ということの正体の一つなのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食(ソーセージ卵)。散歩-地下鉄-自然公園-モール-昼食(中華)-地下鉄-散歩。昼寝。散歩-買物-散歩。大河ドラマ鑑賞。料理-夕食(ケバブ)。LINE会話2。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
