組織は、人間を少し変形させる
最近、ふと思った。組織というものは、文明の産物なのだ。会社、役所、学校、軍隊、病院。現代社会は無数の組織によって動いている。考えてみれば、これはものすごい発明である。何百人、何千人、場合によっては何十万人という、互いによく知らない人間が、役割を分担し、同じ目的に向かって動く。組織がなければ、今の文明はおそらく成立しない。ただ、その一方で最近、こんなことも思う。組織は、人間を自然にあるべき姿から少し変えてしまうのではないか。
身体ではなく、時計で動く
生命体として考えれば、人間は本来、身体の状態に合わせて動く存在だったはずだ。明るくなれば起きる。腹が減れば食べる。疲れれば休む。眠くなれば眠る。危険を感じれば逃げる。興味のあるものがあれば近づく。もちろん現代人がそんな生活をそのままできるわけではない。特に組織に入れば、身体よりも組織の時間が優先される。眠くても会議があれば参加する。体調がよくても、勤務時間が終われば仕事を終える。逆に疲れていても、締め切りがあれば続ける。腹が減ったから食べるのではなく、「12時になったから昼食をとる」。身体のリズムが、時計のリズムに置き換わる。これは組織を運営するためには必要なことである。ただ、生命体として見れば、かなり特殊な状態でもある。
感覚ではなく、役割で動く
組織に入ると、もうひとつ大きな変化が起こる。「自分がどう感じるか」よりも、「自分は何をすべきか」が重要になる。部長なら部長として判断する。営業担当なら営業担当として数字を追う。経営者なら経営者として利益を考える。本人がどう感じているかとは別に、役割にふさわしい行動が求められる。つまり、人間そのものの上に「役割」という服を着る。そして長く組織にいると、その服を着ていること自体を忘れてしまう。「私はこうしたい」と、「部長として私はこうすべきだ」の区別がつかなくなってくる。これは少し不思議なことだ。
現実ではなく、数字を見る
さらに組織が大きくなるほど、現実をそのまま扱うことが難しくなる。そこで数字が登場する。売上。利益。予算。KPI。人事評価。市場シェア。進捗率。数字は文明の偉大な圧縮技術だ。何千、何万という現実を、数個の数字に圧縮して把握できる。しかし、その便利さゆえに、いつの間にか逆転が起きる。現実を見るための数字だったはずが、数字を達成するために現実を動かし始める。
人間も同じだ。本来は一人ひとり違う生命体なのに、「部長」「課長」「A評価」「年収○○万円」「勤続○年」という記号に圧縮されていく。組織にとっては、そのほうが扱いやすい。
組織はDoingの装置なのかもしれない
こう考えているうちに、最近考えていたDoingとBeingの話につながった。組織が問うのは、基本的にDoingである。何をしたか。何を達成したか。どれだけ貢献したか。次に何をするのか。そこでは、「今日、とても穏やかな気分だった」「気持ちよく歩けた」「妻との会話が楽しかった」「昼寝が気持ちよかった」ということには、ほとんど価値がない。
当然だ。組織は人間を幸せにするためだけに存在しているわけではない。何かを実現するためにつくられた装置だからだ。だから組織は、人間を自然にDoingへ引っ張る。何をしているか。何を生み出しているか。何を達成したか。これを何十年間も続けていると、「何もしていない自分」では落ち着かなくなる。これは、かなり強力な文明OSなのだと思う。
卒サラして起きていたこと
私は37年半、組織の中で働いた。そして還暦で卒サラした。当初は単純に「会社を辞めた」と思っていた。ところが4年間ほど経った今、少し違って見えてきた。私は会社を辞めただけではなかったのかもしれない。長い時間をかけて形成された「組織的人間」から、少しずつ生命体としての人間に戻っていたのではないか。最初のうちは、会社を辞めてもDoingが残っている。予定をつくる。目標をつくる。成果を求める。一日を有効に使おうとする。何かを成し遂げようとする。会社は辞めたのに、自分の中には会社が残っている。ところが時間が経つにつれて、少しずつ別のものが重要になってきた。歩く。眠る。料理する。身体を動かす。妻と話す。景色を見る。面白いものを見つける。昼寝をする。誰かと食事をする。どれも履歴書には書けない。KPIにもならない。しかし最近の私は、こういうものこそ「生活」なのではないかと思い始めている。
組織が悪いわけではない
もちろん、これは組織批判ではない。私は組織のおかげで、多くのことを経験できた。一人では到底できない仕事をした。海外で働いた。多くの人と出会った。収入を得て、家族を育て、資産をつくることもできた。組織は文明を動かす素晴らしい発明だと思う。ただし、道具には道具に適した使い方がある。組織は文明を動かすための装置であって、人間の存在そのものを定義する装置ではない。ここを取り違えると、「会社で何者であるか」が、「自分は何者であるか」になってしまう。そして退職した瞬間、自分が何者なのかわからなくなる。
組織的人間から、生命体としての人間へ
人間には、おそらくふたつのモードがある。文明の中で役割を果たす人間。そして、ただ生きている生命体としての人間。前者にはDoingが必要だ。後者にはBeingがある。現役時代は、どうしてもDoingが大きくなる。だから退職後とは、単に仕事がなくなる時期ではないのかもしれない。Doingに大きく傾いていた人間が、Beingとのバランスを取り戻していく時期。そう考えると、卒サラ後に私の関心が、身体、睡眠、食事、散歩、料理、夫婦、自然、住む場所へと移っていったことにも納得がいく。
暇になったからではない。関心の矢印が、「何をするか」から、「どんな状態で生きているか」へ戻ってきたのだ。会社を辞めて4年。私はようやく、組織的人間から、生命体としての人間へ戻る途中にいるのかもしれない。そして考えてみれば、卒サラとは会社を卒業することだけではなかった。自分の中に染み込んだ「組織」から、少しずつ卒業していくことでもあったのだ。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。帰国準備。Grab-朝食@ラウンジ-昼食@飛行機-リムジン-タクシー。夕食。LINEチャット多数。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
