人生、色々なものを積み重ねてきた。学歴、仕事、肩書き、経験、知識、人脈、収入、資産、家、家財。若い頃からずっと、「何かを積み上げること」が人生だったように思う。会社員生活では、それが特に分かりやすかった。経験を積む。仕事の能力を高める。役職が上がる。収入が増える。資産を形成する。人生とは、昨日より今日、今日より明日へと、何かを積み上げていくものだと思っていた。ところが還暦で会社員生活を終え、数年が経った。ふと、こんな疑問が浮かんだ。人生、色々なものを積み重ねてきた。結局、何が残っているのだろう? 考えてみると、会社の肩書きは、会社を辞めた瞬間にほとんど消えた。仕事上の実績も、今の生活ではほとんど使わない。人脈も同じだ。「知っている人」の数より、今も会いたいと思う人が何人いるかの方が大切になった。家や資産は残っている。しかし、それも最後まで所有し続けること自体に意味があるわけではない。家財に至っては、むしろこれから減らそうとしている。では、何が残ったのか。最近の生活を振り返ると、四つくらいあるように思う。
ひとつ目は、身体。歩く。食べる。眠る。見る。聞く。触れる。結局、現実と接触しているのは身体である。どれだけ資産を持っていても、自分の身体を自分で運べなくなれば、世界との接触範囲は急速に狭くなる。だから最近、歩くことやヨガ、ピラティス、ジムを以前より大切に感じるようになったのだと思う。
ふたつ目は、関係。妻、子ども、孫、友人。ここで残るのは「人脈」ではない。長い時間を一緒に過ごしたことで形成された信頼や、共有された記憶である。これは預金残高のように数字では確認できない。しかし、人生の後半になるほど、その存在感は大きくなる。
三つ目は、世界の見え方。これが意外に大きい。英国や米国、中国で暮らしたこと。長い会社員生活。子育て。両親の死。卒サラ。二拠点生活。そして最近のシンガポール生活。出来事そのものは過去になった。しかし、それらを通して形成された「世界はこういうものらしい」という感覚は残っている。言ってみれば、63年間かけて作ってきた自分なりの世界モデルである。
四つ目は、身体に染み込んだ習慣や能力。料理をする。歩く。人と話す。生活空間を整える。違和感に気づく。観察する。考える。言葉にする。これは資格や知識とは少し違う。長い時間をかけて、自分という生命体に染み込んだ「世界との接し方」である。
こうして考えてみると、人生で積み上げてきたものの多くは、そのまま残るわけではないらしい。むしろ、長い時間をかけて自分の中へ溶け込んでいく。
そして、ここからさらに考えてみる。身体も永久には残らない。資産も残らない。人間関係にも終わりがある。自分の世界モデルさえ、自分が死ねば消える。そうすると最後に手元に残るものは、もっと単純なのかもしれない。今日という一日を、どんな状態で生きられるか。若い頃は、今日を使って未来を作っていた。勉強する。働く。稼ぐ。貯める。経験を積む。「今日」は未来のための材料だった。しかし人生の後半は、少し違うのかもしれない。
これまで積み上げてきた身体、関係、経験、知識、資産、生活環境を使って、今日を生きる。つまり矢印が反対になる。未来のために今日を使うのではない。これまでの人生を使って、今日を生きる。
人生前半は、何を積み上げるか。人生後半は、積み上げてきたものから、何が自分に染み込んだか。そして最後には、それを使って、今日をどう生きるか。そういうことなのかもしれない。
私はこれまで、人生をかなり真面目に「運営」してきた。目標を決め、計画を立て、実行し、成果を確認する。会社員生活では、それが必要だった。しかし卒サラして数年。最近、「人生を運営しすぎない」という感覚が少しずつ気になり始めている。もしかすると、積み上げる時代が終わりつつあるからなのだろう。これから必要なのは、さらに何かを載せることではない。積み上げてきたものを、生活の中へ戻していくこと。身体を動かす。妻と食事をする。料理をする。人と会う。自然を見る。考える。書く。そして眠る。
何十年間もかけて集めてきたものが、ようやく「今日」という一日に還っていく。そう考えると、人生は直線ではない。積み上げて、最後に何かを完成させるものではなく、積み上げたものが再び日々の生活へ戻ってくる循環なのかもしれない。今日も生きている。さて、今日は何を積み上げようか、ではなく。今日、この人生をどう使おうか。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ガソリンスタンド-コンビニ-駐車場-ヨガ-昼食(インドカレー)-ジム-買物。夕食(焼肉)。Line。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
