不安定期は、早く終わらせなくていい
拠点を移動した後、しばらく「収まりが悪い」と感じることがある。箱根から東京へ移ったときもそうだし、東京から箱根へ移ったときもそうだ。先日のシンガポール7泊から帰国した後には、それをいつも以上にはっきり感じた。体調が悪いわけではない。むしろ身体はよく動く。それなのに、何となくふわっとしている。いつもの場所に自分がきちんとはまっていないような感じがする。最近、この現象を「生活OS」という視点から考えている。
場所を移動するのは、身体だけではない
私は生活OSを、「身体・時間・空間・関係」という四つの要素から考えている。毎日の生活では、この四つが環境とうまく噛み合っている。何時に起きるか。どこを歩くか。何を食べるか。どこで仕事をするか。誰と話すか。夕方から夜にかけて、どう静まっていくか。こうしたことの大部分を、いちいち考えてはいない。生活OSが環境に適応し、かなりの部分を自動運転してくれている。
ところが拠点を移動すると、その対応関係が一度崩れる。身体は新しい気温、光、音、動線に反応する。一日の時間の使い方も変わる。人との距離も変わる。注意や関心が向かう方向まで変わる。身体は新しい場所に到着していても、生活OSはまだ到着していないのかもしれない。
コントロール感が弱くなる
この不安定期には、人生に対するコントロール感が少し弱くなることがある。特に何か問題があるわけではない。しかし、「これでいいのだろうか」「これから何をしようか」といった漠然とした思考が浮かんでくる。以前なら、それを自分自身の問題として考えていたかもしれない。しかし最近は、少し違って見える。普段のコントロール感は、意志の強さだけから生まれているのではない。いつもの場所、いつもの時間、いつもの行動、いつもの人間関係。そうした大量の「予測可能性」に支えられている。だから環境が変われば、
予測可能性が下がる
→ 自動運転が減る
→ コントロール感が弱くなる
→ 漠然とした不安が生まれる
ということが起きても不思議ではない。人生そのものが不安定になったのではない。生活OSが、新しい環境にまだ再同期していないのである。
ところが、この時にアイディアが出る
面白いのはここからだ。私は拠点を移動した後の不安定期に、新しいアイディアを得ることが多い。今回のシンガポール滞在もそうだった。もともとは執筆をするつもりで行った。ところが実際に得たものは、執筆の進捗以上に、生活OS、身体と環境、外向き・内向きの注意、日常生活、自己モデルなどについての大量の気づきだった。なぜだろう。おそらく、生活OSが一時的に緩むからではないか。安定した日常では、「これはこういうものだ」という無数の前提が固定されている。だから生活は楽になる。しかし同時に、世界を見る枠組みも固定される。環境を変えると、その前提が少し外れる。すると、「なぜ日本ではこうしているのだろう」「なぜ箱根ではこう感じるのだろう」「なぜ東京では思考がこう動くのだろう」という問いが生まれる。世界モデルや自己モデルが、一時的に編集可能な状態になるのかもしれない。
創造性には、少しのコントロール喪失が必要なのかもしれない
ここでひとつ、面白い仮説に行き着いた。創造性には、ある程度のコントロール喪失が必要なのかもしれない。完全に安定した生活は快適だ。予測できる。自動運転できる。安心できる。しかし、それだけでは新しいものは見えにくい。反対に、不安定すぎれば不安に飲み込まれてしまう。その中間に、「少し足場が揺れている状態」がある。安心できる生活基盤は残っている。しかし、いつもの環境との噛み合わせが少し外れている。この状態こそ、創造性にとって面白い領域なのではないか。
安定は「生きる」のに向いている。揺らぎは「気づく」のに向いている
そう考えると、不安定期に対する見方が変わってくる。これまでは、拠点移動後の違和感を、「早く通常運転に戻したい」と思っていた。しかし、むしろ逆なのかもしれない。不安定期は、早く終わらせるべき時間ではなく、観察すべき時間なのだ。生活OSが揺れているからこそ、普段は透明になっているものが見える。身体が何を求めているか。自分は何に安心していたのか。どんな環境で思考が活発になるのか。注意は外へ向いているのか、内へ向いているのか。何を「当たり前」と思い込んでいたのか。安定してしまえば、また見えなくなる。だから、揺れている間に観察しておく。
ただし、揺れている時に人生を決めない
一方で、不安定期には注意も必要だ。コントロール感が弱くなっているときに、「この生活でいいのだろうか」「これからどう生きるべきだろう」と大きな結論まで出してしまう必要はない。その不安は、人生そのものについての不安ではなく、単に生活OSの再同期過程から生まれている可能性があるからだ。だから私は、こんな原則を持っておくとよさそうだと思っている。揺れているときは、答えを出さず、観察する。アイディアは拾う。違和感も拾う。不安も否定しない。しかし、すぐには意味づけしない。そして数日後、新しい環境に身体と生活OSが馴染んでから、思考という編集者に渡せばいい。
二拠点生活は「揺らぎをつくる装置」だった
こう考えると、6年以上続けてきた二拠点生活の意味も少し違って見えてくる。東京には東京の生活OSがある。箱根には箱根の生活OSがある。そして今回、シンガポールという第三の環境まで経験した。重要なのは、三つの場所を持つことそのものではないのかもしれない。拠点を移動するたびに、安定→移動→揺らぎ→観察→発見→再編集→再同期→新しい安定という循環が起きる。つまり複数拠点生活とは、安定した生活を複数持つことだけではない。自分自身を、安全な範囲で定期的に揺らす仕組みでもあるのだ。
私はこれまで「心の平静」を大切にしてきた。しかし、平静とは、ずっと揺れないことではないのかもしれない。揺れても、それを異常だと思わない。観察し、何かを受け取り、やがてまた静かなところへ戻ってくる。静 → 動 → 揺らぎ → 発見 → 静。そんな循環そのものが、これからの生活なのかもしれない。
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