穏やか・活発・自由

最近、自分はいったい何を求めて生活しているのだろう、と考えることがある。お金なのか。健康なのか。自由なのか。人とのつながりなのか。知的な刺激なのか。何かを書き残すことなのか。もちろん、どれも欲しい。でも、これらを並べてみると、どうも同じ階層のものではない気がしてきた。もう一段上に、「それらを使って、どんな状態で生きていたいのか」がある。今のところ、その答えとして一番しっくりくるのが、「穏やかで活発な状態」である。

「心の平静」だけでは、少し足りなかった

卒サラしてから、私は「心の平静」をかなり上位の目標として考えてきた。焦らない。不安に振り回されない。他人と比較しすぎない。足るを知る。今ここにいる。これらは今でも変わらない。ところが最近、「心の平静」だけだと、少し静的すぎるのではないかと思い始めた。私は別に、何もせず穏やかに一日を終えたいわけではない。歩きたい。泳ぎたい。ゴルフもしたい。料理もしたい。人とも会いたい。知らない場所にも行きたい。本も読みたい。考えたい。
そして書きたい。つまり、かなり動きたいのである。ただし、昔のように「目標を決めて、自分を駆動して、成果を出す」という動き方とは少し違う。穏やかなのだけれど、よく動いている。そんな状態が欲しいのだと思う。

穏やかと活発は、反対ではない

考えてみれば、「穏やか」と「活発」は反対語ではない。穏やかとは、主として内側の状態である。過剰な不安や焦りがなく、何かを証明し続ける必要もなく、自分の現在地をそれなりに受け入れている。一方の活発とは、外界との関係である。歩く。人に会う。自然に触れる。身体を動かす。料理する。旅をする。考える。つくる。内側は静かでも、外界とは盛んに接触していることができる。むしろ、内側が静かだからこそ、外の世界に素直に反応できるのかもしれない。

これは、最近考えている「静 → 動 → 静」という生活イメージにもよく合う。基本ポジションは静。しかし、何か面白いものを見つければ動く。人に誘われて面白そうなら出かける。身体が動きたそうなら歩く。書きたいことが浮かべば書く。旅に出たくなれば旅に出る。そして、それが終わればまた静へ戻る。ずっと動き続ける必要はない。ずっと静かでいる必要もない。生命体なのだから、静と動を行き来すればよい。

「活発にする」と「活発になれる」は違う

ここには、サラリーマン時代との大きな違いがある気がする。サラリーマン時代の私は、かなり長い間、「何をするべきか」を考えていた。目標がある。予定がある。締切がある。役割がある。だから、自分を動かす。これは文明社会では非常に有効な仕組みだった。ところが卒サラ後、少しずつ別の動き方が見えてきた。自分を動かすのではなく、動きたくなる状態をつくる。身体の調子がいい。よく眠れている。時間に余白がある。経済的不安が小さい。人間関係が安定している。環境に刺激と静けさの両方がある。すると、「さて何をしなければならないか」と考えなくても、何かをしたくなる。歩こう。料理しよう。誰かに連絡しよう。東京へ行こう。箱根へ戻ろう。シンガポールへ行ってみよう。続きを書こう。意欲を意志で製造する必要がなくなる。状態から行動が立ち上がってくる。これは、私が考えてきた「状態ファースト」の生活そのものなのかもしれない。

お金も健康も目的ではなくなる

こう考えると、お金や健康の位置づけも少し変わる。お金を増やすこと自体が最上位ではない。お金によって不安を小さくし、選択肢を増やし、時間や空間の自由度を確保する。その結果として、「穏やかで活発」でいられる。

健康も同じだ。健康診断の数字を良くすることそのものが目的ではない。自分の身体を自分で運び、歩き、人に会い、旅をし、ゴルフをし、料理をし、世界と接触し続けられる。だから身体を整える。

人間関係もそうだろう。たくさんの人と付き合うことが目的なのではなく、安心できる関係と適度な刺激があることで、自分の状態が整う。

東京、箱根、シンガポールという環境について考えているのも、結局は同じなのかもしれない。場所そのものを集めたいわけではない。自分という生命体が、穏やかで活発でいられる環境を配置している。そう考えると、いろいろなことが一本につながってくる。

最上位に「状態」を置く

現役時代は、成果を出す→安心するという順番で生きていたように思う。今は、これを逆転させようとしている。生活を整える→安心する→状態が整う→好奇心や意欲が生まれる→自然に動く→結果として何かが生まれる。成果は最後でよい。しかも、必ずしも成果が出なくてもいい。今日よく歩いた。面白い人と話した。料理がおいしかった。知らないことをひとつ知った。原稿が少し進んだ。そして夜になれば、また静へ戻る。それで一日は十分成立する。

穏やかで、活発で、自由に

もうひとつ言葉を足すなら、「穏やかで、活発で、自由な状態」なのかもしれない。自由とは、何でもできることではない。「こうしなければならない」という自己物語や、社会から取り込んだ価値基準に、必要以上に動かされなくなることだ。穏やかである。でも、生命力はある。世界に興味がある。面白ければ動く。疲れたら休む。動きが終われば静へ戻る。そして翌朝、「今日も生きていて面白そうだ」と思える。考えてみれば、私が欲しかったものは、肩書きでも成果でも資産額でもなかったのかもしれない。それらはすべて道具だった。欲しかったのは、穏やかで、活発で、自由に、世界と出会い続けられる状態。64歳になった今、ようやく人生の最上位目的が、「何を達成するか」ではなく「どんな状態で生きるか」というところまで上がってきたような気がしている。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ルンバ。ジム-昼食-ジム。昼寝。移動準備。夕食。新中野-箱根峠。セットアップ。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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