先月、シンガポールに一週間滞在した。長男宅に泊まったのでホテル代はかからなかったが、航空券、食費、交通費などを含めれば、それなりにお金は使った。ざっくり20万円くらいだろうか。
今になって思う。20万円なんて安いものだった。もちろん、観光地をたくさん回ったからではない。高級レストランへ行ったわけでもない。むしろ今回は、観光旅行らしいことをあまりしていない。
朝起きる。街を歩く。地下鉄に乗る。住宅地を見る。モールに入る。人を見る。食事をする。スーパーで買い物をする。家に帰る。疲れたら昼寝をする。夕方、また外へ出る。そんなことを一週間繰り返した。つまり、旅行というより「シンガポールで日常生活をしてみる」という実験だった。
ところが、その一週間から思いのほか多くのものを持ち帰った。特に大きかったのが、「シンガポールでは、思考の矢印が外へ向いている」という感覚だった。日本にいると、私はよく自分について考えている。これからどうするか。何を書こうか。自分は何を感じているのか。これまでの人生は何だったのか。今後どう生きるのか。もちろん、こうした内省は悪いことではない。実際、卒サラ後の私は、内省することで多くのことを考えてきた。
ところがシンガポールでは、それが少なかった。街が気になる。人が気になる。住宅が気になる。地下鉄が気になる。モールが気になる。民族構成が気になる。食文化が気になる。気候が気になる。人々の歩き方まで気になる。次々に外界から情報が入ってくる。意識と関心の矢印が、自然に「私」から「世界」へ向いていた。
帰国してから、この違いを考えていた。最近、二冊目の本の構想の中で「世界モデル」と「自己モデル」について考えている。人間は現実そのものを頭の中に持つことはできない。見たり、聞いたり、経験したりした膨大な現実を圧縮して、自分なりの「世界モデル」を作っている。そして、その世界モデルの中には「自分」もいる。これが自己モデルである。以前は、世界モデルと自己モデルを二つ並べて考えていた。しかし、どうも違う。自己モデルは世界モデルの一部分なのではないか。ただし、自己はかなり特殊な対象である。私は自分を客観的な対象として見ることができる。「自分はこういう人間だ」「自分は最近こう変わった」と考えることができる。
しかし同時に、その世界を見ている主観そのものも私である。つまり自己は、世界の中に存在する対象でありながら、世界を見る視点でもある。この二重性を持っている。だから自己は、世界モデルの中でも非常に目立つ。しかも、いつでもアクセスできる。外の世界に特に関心が向いていなければ、意識は自然に自己へ向かいやすい。自分について考える。過去の自分を思い出す。将来の自分を想像する。自分を評価する。また自分について考える。こうして自己の中で思考が循環し始める。
ここで、シンガポールでの経験とつながった。シンガポールでは自己について考えないよう努力していたわけではない。そんなことは一度も考えていなかった。ただ、世界のほうが面白かった。見るものがある。聞くものがある。知らないことがある。身体を動かして現実に触れる。すると、意識と関心は自然に世界へ広がっていく。そして、ある一文にたどり着いた。自己への意識を減らそうとする必要はない。世界への関心を増やせば、自己は自然に世界の一部へ戻る。この一文が言葉になった瞬間、「今回のシンガポールの20万円なんて安いものだ」と思った。
考えてみれば、20万円でこの言葉を買ったわけではない。20万円で買ったのは、新しい現実との接触だった。新しい場所へ行く。身体を置く。歩く。見る。感じる。違和感を持つ。問いが生まれる。そこから帰国して、AIとの対話を使って言語化する。整理する。構造化する。圧縮する。すると、一週間の経験がひとつの概念へ変わっていく。
最近考えている「AI時代の人間の本業」という話も、ここにつながる。AIは非常に多くのことを知っている。言語化も得意だ。整理もできる。構造化もできる。しかし、私の代わりにシンガポールの街を歩くことはできない。私の身体で暑さを感じることもできない。午前中に2万歩近く歩いて、午後に深い昼寝へ落ちることもできない。モールに座って人々を眺めながら、「日本とは何かが違うな」と感じることもできない。そこは人間の仕事なのだと思う。現実と出会う。観察する。違和感を持つ。問いを持つ。そしてAIに渡す。AIが言葉にする。比較する。構造化する。私はそれを読んで、「そうだ」あるいは、「少し違う」と現実に照らして判断する。そしてまた現実へ戻る。これも一つの循環である。現実→身体→観察→問→AI→ 言語化・構造化→人間の判断→また現実へ 今回のシンガポール滞在では、この循環をかなり濃密に経験した。
そう考えると、お金の使い方についても見方が変わってくる。20万円を使えば、預金残高は20万円減る。会計上はそれで終わりである。しかし生活では、それだけではない。お金→新しい環境→身体経験→観察→世界モデルの更新→新しい問い→新しい言葉と循環することがある。お金が消えたのではない。別のものに姿を変えたのである。現役時代は、お金を増やすことをかなり考えてきた。それも必要だった。しかし一定のところまで来ると、今度は、「何に変換するか」のほうが重要になってくるのかもしれない。モノに変える。快楽に変える。安心に変える。時間に変える。経験に変える。そして、世界モデルを更新するための現実との接触に変える。これも、お金のかなり面白い使い方だと思う。そう考えると、シンガポールを第三拠点にする意味も少し変わってくる。単に冬暖かい場所でもない。観光地でもない。長男に会うためだけの場所でもない。自分の世界への関心を再び外へ開く場所。そういう役割があるのかもしれない。一週間で20万円。高いか安いか。それは何を買ったと考えるかによる。旅行を買ったと考えれば、それなりの金額である。しかし、世界を少し大きくする機会を買ったと考えるなら、私にはずいぶん安かった。何より、今回一つの言葉を持ち帰った。
自己への意識を減らそうとする必要はない。
世界への関心を増やせば、自己は自然に世界の一部へ戻る。
この一文だけでも、20万円の元は十分に取れた気がしている。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ジム-昼食(麻辣湯)-ジム-喫茶。英国年金事務。4人宴席@浜松町。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
