自己とは何か?――変わり続けるのに、なぜ「同じ私」なのか
最近、「世界モデル」と「自己モデル」について考えている。
人間は外部世界をそのまま認識しているわけではない。五感を通じて得た情報に、過去の経験、記憶、知識、予測などを組み合わせ、脳の中に世界についてのモデルを構築している。そして、その世界モデルの中には、自然、社会、他者、お金、時間などとともに、「私」という存在も含まれている。
つまり、自己とは何か確固たる実体があるというより、世界モデルの中に形成された「自分についてのモデル」なのではないか。そう考えると、ひとつの疑問が浮かんでくる。自己モデルは絶えず変化している。それなのに、なぜ人間は何十年間を経っても「同じ私」だと感じるのだろうか。
1.64歳の私は、30才の私と同じなのか
私は1962年生まれ。今年64才になった。30才の頃の私は、銀行員として働き、これからのキャリアや家族の生活を考えていた。その後、海外勤務を経験し、職場を変え、還暦でサラリーマン生活を卒業した。現在は東京と箱根の二拠点生活を送りながら、身体、思考、人間の設計思想について考え、執筆している。30才の私と64才の私では、生活環境も、社会的役割も、関心事も、価値観も大きく違う。身体も変わった。知識も経験も増えた。お金に対する考え方も変わった。それでも、30才の私を振り返れば、間違いなく「あれは私だった」と感じる。一体、何が同じなのだろうか。
2.自己の同一性とは、不変性ではなく連続性
ここで、ひとつの仮説に行き着いた。自己が同じだと感じるのは、自己モデルが変わらないからではない。変化し続ける自己モデルが、連続したものとして統合されているからではないか。脳は、毎朝目覚めるたびに自己モデルをゼロから構築しているわけではない。昨日までの自分についての理解を土台に、新しい経験や情報を取り込み、少しずつ更新している。もちろん、人生には転職、結婚、退職など、自己モデルが大きく変わる出来事もある。それでも、以前の自分と現在の自分の間には、何らかのつながりが残る。例えるなら、長年改訂され続ける地図のようなものだ。街並みが大きく変わっても、以前の地図から更新されてきた地図として理解できる。自己モデルも同様なのだろう。自己とは、完成されたものではなく、更新され続けるもの。そして、更新の連続性が「同じ私」という感覚を生み出しているのではないか。
3.自己物語という編集機能
もうひとつ、重要な役割を果たしているのが「自己物語」だと思う。人間は過去の出来事を、単なる事実の集合として記憶しているわけではない。出来事と出来事を結びつけ、意味を与え、ひとつの人生として理解している。例えば、私の場合。銀行員として長く働いた。海外で暮らした。還暦で卒サラした。二拠点生活を始めた。そして、人間とは何かを考えるようになった。これらの出来事をひとつの物語としてつなぐことで、「私の人生」が成立している。興味深いのは、自己物語も固定されていないことだ。現役時代には成功や成果という視点から理解していた経験を、今では身体、安心、創造性という視点から捉え直している。過去の事実は変わらない。しかし、過去の意味は変わる。つまり、現在の自己モデルが変わると、過去の自己物語も編集される。自己物語とは、変化し続ける自己モデルを、時間軸上で一人の人間として結びつける編集機能なのだろう。
4.身体は「今ここ」の連続性を支える
ただし、自己の連続性を自己物語だけで説明するのは不十分だと思う。なぜなら、人間には身体があるからだ。身体は、常に「今ここ」で世界と出会っている。空腹を感じ、歩き、疲れ、眠り、目覚める。身体そのものも加齢によって変化する。しかし、生きた身体としての活動は連続している。認知科学では、身体感覚や自分が行為しているという感覚に根ざした自己を「最小自己」と呼ぶ議論がある。ここに、身体と思考の役割分担が見えてくる。身体は、今ここで経験する主体としての感覚を支える。思考は、記憶や知識を使って世界モデルと自己モデルを構築し、過去から未来へ自己物語を編集する。身体が「今ここにいる私」を支え、思考が「時間を超えて続く私」を構築する。もちろん、身体と思考は切り離せない。両者が相互に作用することで、私という感覚が生まれているのだろう。
5.自己モデルを観察する「私」は誰なのか
さらに考えてみる。「私はこういう人間だ」と考えているとき、私は自己モデルを参照している。一方で、「以前はこう考えていたが、最近は変わってきた」と気づくとき、私は自己モデルそのものを観察している。これはメタ認知と呼ばれる働きだ。では、自己モデルを観察している「私」は、自己モデルの外側に存在するのだろうか。必ずしもそう考える必要はない。脳には、自分自身の思考や状態を再び認識し、評価する働きがある。自己モデルを観察することも、脳の自己参照的な働きとして理解できる。そう考えると、自己の奥底に、すべてを統括する不変の「本当の私」を想定する必要はなくなる。この点は、初期仏教の「無我」とも接点があるように思う。無我とは、単純に自分が存在しないということではなく、身体や心の働きの背後に、独立不変の自己を見いだせないという理解だ。自己は存在しないのではない。自己という働きは存在する。しかし、固定された実体として存在しているとは限らない。そういうことなのかもしれない。
6.卒サラによって、自己モデルの更新が加速した
この理解を自分の生活に当てはめると、卒サラ後の4年間が違った意味を持ってくる。サラリーマン時代、私の自己モデルは、所属する組織、役職、仕事、成果、収入などによって大きく規定されていた。それらは自己モデルを安定させる外部の枠組みでもあった。還暦で卒サラすると、その枠組みが一気に外れた。当初は、サラリーマンモードから抜け出すこと自体がひとつの課題だった。しかし、3年ほど経過してサラリーマンモードが薄れてからも、自分自身が変化し続けていることに気づいた。身体への関心が高まり、創造性を求めるようになり、お金の意味も変わってきた。かつては蓄積することに価値を感じていたお金も、今では新しい経験や発見に変換するための道具として捉え始めている。最近では、世界との接点を増やすことが、世界モデルと自己モデルの更新につながると考えている。東京と箱根を行き来し、ときにはシンガポールに滞在する。人と会い、歩き、料理をし、身体を動かし、考え、書く。環境が変わると、身体の反応が変わる。身体の反応が変わると、思考も変わる。そして、自己モデルも更新される。卒サラとは、単に会社を辞めることではなかった。自己モデルを更新するための環境が、大きく変わることだったのだ。
7.変わらないことではなく、変われることが安心を生む
ここまで考えて、ひとつの逆説に気づいた。人間は、自分が変わらないことに安心を求めがちだ。自分の性格、価値観、社会的立場、生活習慣が安定していれば、安心できると考える。しかし、本当にそうなのだろうか。もし自己が固定された実体ではなく、更新され続けるモデルだとすれば、変化することは自己を失うことではない。むしろ、変化することこそ自己の自然な姿なのではないか。重要なのは、変化しないことではなく、変化を自分の人生の連続性の中に取り込めることだ。そう考えると、安心の意味も変わってくる。人間は、変わらない自己を持っているから安心するのではなく、変わり続けても自分の連続性を感じられるから、安心して変化できるのではないか。もちろん、変化には不安も伴う。大きすぎる変化は自己の連続性を揺るがすこともある。だからこそ、身体、生活リズム、人との関係、住環境といった生活の基盤が重要になる。
安定した生活の基盤があるからこそ、新しい世界と出会い、自己モデルを更新する余裕が生まれる。
私が求めている「穏やかで活発な状態」とは、まさにそのような状態なのかもしれない。
8.自己とは、名詞ではなく動詞なのかもしれない
今回の思考を整理すると、次のようになる。世界モデルは、世界を理解するために更新され続ける。自己モデルは、その世界モデルの中にある、自分についてのモデルである。自己物語は、変化する自己モデルを時間軸上でつなぐ。身体は、今ここで世界と出会い続ける。そして、メタ認知によって、自分のモデルそのものを観察することができる。これらの働きが組み合わさって、「私」という感覚が生まれている。だとすれば、自己とは、どこかに完成された形で存在するものではない。
自己とは、身体を通じて世界と出会い、世界モデルを更新し、その中で自分自身を理解し直し続けるプロセスなのではないか。
自己は名詞というより、動詞に近い。64才の私は、30才の私と同じではない。しかし、30才の私から連続して生まれてきた私である。そして、65才の私は、今の私ともまた違っているだろう。それでいい。むしろ、そうありたい。今後も現実と出会い、観察し、考え、自己モデルを更新していく。その過程そのものが、生きることの面白さなのだと思う。
変わり続ける私が、ずっと私である。
この一見矛盾した感覚こそ、人間という生命体の興味深い特徴なのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。前夜の対応。ジム(ヨガ・サウナ)。昼食。昼寝。英国年金事務。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
