シンガポールでは、なぜか酒を飲みたいと思わない― 欲求は「自分」だけから生まれているのか
シンガポールで生活していて、不思議なことに気づいた。アルコールを飲みたいと思わない。別に禁酒をしているわけではない。「健康のために我慢しよう」と意識しているわけでもない。ただ、飲みたいという欲求があまり出てこないのである。これはちょっと面白い。
「飲まない」と「飲みたいと思わない」は違う
「今日は酒を飲まない」と決めるのは、意志の世界である。飲みたい。しかし健康のために我慢する。そこには、欲求 → 意志 → 抑制という構造がある。
ところが今回のシンガポール生活では、その前段階の「飲みたい」が弱い。つまり、抑制しているのではなく、欲求そのものが立ち上がってこない。これは私が最近考えている「人は意志よりも状態によって動く」という話とつながってくる。
酒を欲していたのは、本当に「私」なのか
そもそも、なぜ人は夕方になると酒を飲みたくなるのだろう。もちろんアルコールそのものの作用もある。しかし、それだけではないように思う。
仕事が終わった。
一日頑張った。
少し疲れた。
夕食の時間になった。
いつもの椅子に座った。
すると、「ビールでも飲もうか」となる。だとすれば、酒への欲求は自分の内側から突然湧き上がっているのではない。時間、場所、身体の疲労、習慣、食事、人間関係などが組み合わさって、「飲みたい」という状態を作っているのではないか。
シンガポールでは状態が違う
今回のシンガポール滞在は、観光旅行というより「日常生活を別の場所でやってみる」という感覚に近い。朝、外に出る。運河沿いでは、多くの人が走っている。暑い。歩く。汗をかく。水を飲む。街を眺める。普段とは違う人、建物、植物、空気に出会う。それだけで結構な刺激がある。そして夜になると身体は休息を求める。ここには、東京や箱根とは少し違う、身体 → 活動 → 刺激 → 疲労 → 休息という循環ができているのかもしれない。酒によって一日を切り替えなくても、環境そのものが一日のリズムを作ってくれている。
欲求は「身体 × 環境 × 習慣」から生まれる
そう考えると、アルコールだけの話ではなくなってくる。甘いものが食べたい。スマホを見たい。買い物をしたい。誰かと話したい。ひとりになりたい。外に出たい。あるいは、何もしたくない。私たちはこうした欲求を「自分の意思」や「自分の性格」だと思いがちである。
しかし実際には、身体 × 環境 × 習慣の組み合わせによって、かなりの部分が生み出されているのではないか。だとすれば、自分を変えるために「意志を強くしよう」とするだけでは不十分なのだろう。むしろ、欲求が自然に変わるような状態を作る。その方が生命体としては自然なのかもしれない。
場所を変えると、「自分」の一部が変わる
東京から箱根へ行くと、思考の動き方が変わる。箱根から東京へ戻ると、街から受け取る刺激が変わる。そしてシンガポールに来ると、今度は酒を飲みたいという欲求まで変わった。
身体は同じである。脳も同じである。もちろん「私」も同じである。それなのに、場所を変えるだけで欲求が変わる。これは、「自分」というものを考える上で結構重要なことではないか。自分とは、身体の内側だけに存在している固定物ではない。環境との接点で、その都度つくられている部分がかなりある。
旅ではなく「生活実験」
そう考えると、今回シンガポールに来た意味も少し違って見えてくる。観光名所をたくさん回らなくてもいい。むしろ普段と同じように、起きる。歩く。食べる。街を見る。休む。眠る。それを違う場所でやってみる。すると、普段は「自分の性格」「自分の好み」「自分の欲求」だと思っていたものの一部が、実は環境によって作られていたことに気づく。
拠点を移すことは、自分を観察する実験でもある。今回の小さな発見は、「シンガポールでは酒を飲まなくなった」ではない。もっと正確には、「シンガポールでは、不思議と酒を飲みたいと思わない自分が現れた」ということなのだろう。欲求を変えたければ、欲求そのものと格闘する必要はないのかもしれない。
環境を変える。
身体を動かす。
生活の循環を変える。
すると欲求の方が、後から静かについてくる。人は意志だけで動いているのではない。やはり、状態が先なのだ。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。散歩-朝食(粥)-買物。昼食(蒸し物)。買物。昼寝。散歩-夕食(鼎泰豊)。LINE会話2。夕寝。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
