最近、「AIを使いこなすにはプロンプトが重要だ」とよく言われる。確かにそれは間違いではない。質問の仕方によって返ってくる答えは変わる。AI活用の初期段階では、プロンプトの工夫は大きな意味を持つ。
しかし、AIとの対話を続ける中で、私は少し違うことを感じるようになった。本当に重要なのは、プロンプトそのものではなく、「何を観察してきたか」なのではないかと思うのである。AI活用には大きく三つの段階があるように見える。
① 最初の段階は「質問する」である。「○○を教えてください」「○○について説明してください」。これは検索の延長線上にある使い方だ。
② 次の段階は「プロンプトを工夫する」である。「専門家として答えてください」「表で整理してください」「三つの視点で説明してください」「イラストで示してください」。いわゆるプロンプトエンジニアリングと呼ばれる世界である。
③ そして、もうひとつ先の段階があるように思う。それは「思考を外部化する」段階である。自分の違和感。自分の体験。自分の観察。自分の仮説。それらをAIに投げかけながら、一緒に整理していく。
私自身、卒サラ後の3年間で、自分の生活を観察し続けてきた。
睡眠を整えると何が起きるのか。
なぜ自然の中にいると落ち着くのか。
なぜ予定が空くと不安になるのか。
なぜ人は成果を求め続けるのか。
そうした観察を続ける中で、「整った状態が先である」「安心は成果の中ではなく足元の生活の中にある」「『頭は未来へ、身体は今ここ』――頭と身体は同じ時間を生きていない」といった発見にたどり着いた。
AIとの対話は、その発見を生み出したのではない。むしろ、私の中に散らばっていた観察結果を整理し、構造化し、言葉にする作業を手伝ってくれたのである。
以前、私はAIとの対話をこう表現したことがある。「自分自身の綿菓子の棒をAIに突っ込み、まとわりついたものを整理しているような感覚だ。」今でも、その感覚は変わらない。今まで、人、本、経験から学び、月単位や年単位で行っていた気づき、納得、腹落ちまでのプロセスを1日何回もしている感じだ。
私にとって、AIは知恵を与えてくれる先生というより、観察を整理してくれる編集者に近い。だから、AI時代に本当に価値を持つのは、プロンプトだけではない。どれだけ深く観察してきたか。どれだけ自分自身の人生の中に材料を持っているか。そこが重要になる。プロンプトは釣り竿かもしれない。しかし魚がいる池を見つけるのは観察である。
そして振り返ると、卒サラ後の私がやってきたことも結局は同じだった。人類史を学び、生活を観察し、身体の声を聞き続けてきた。そしてここ1年間は、AIをテニスの壁打ちの壁のように使った。その結果として見えてきたのは、「人間とはどのように設計された存在なのか」という問いだった。
また、AIとの対話は、観察を整理するだけでは終わらない。整理された構造を眺めているうちに、「次は何を観察すればよいか」が見えてくる。そして新しい観察が生まれ、また構造化される。そのOUTPUT-INPUT循環の中で、最終的には人間観、人生観、世界観などが少しずつ深まっていく。
だからAI時代とは、知識を集める時代ではなく、観察の価値が短時間で高まる時代なのかもしれない。良いプロンプトよりも、良い観察。そして良い観察は、各人の人生そのものからしか生まれない。そう考えると、今日もまた少し面白い。今日も生きていて面白そうだ。そして気づけば、次に観察したいことがまたひとつ増えている。
現役時代は、外側から「もっともっと」と追い立てられて生きていた感覚が残っている。AIを得た卒サラ時代は違う。内側起点で、観察し、整理し、また観察する。その循環の中から、次に知りたいことが自然に立ち上がってくる。外側から押されて進むのではない。内側から引っ張られる感覚がある。
冷めた視点で言えば、AIを使っているからといって何か特別なことをしているわけではない。人から学び、本から学び、経験から学びながら、自分の中で整理していく。そのプロセスを、月単位や年単位から時間単位へと高速化しているだけである。それでも、移動手段が徒歩から新幹線になったと思えば興奮せざるを得ない。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。昼食。執筆。買物。料理。夕食。執筆。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
