変わり続ける

サラリーマンモードを抜けた後も、私は変わり続けている

卒サラして4年間が経った。自分としては、サラリーマンモードからの脱却には3年くらいかかったと思っている。37年間以上サラリーマンをやってきたのだから、そんなものだろう。会社へ行かなくなればサラリーマンではなくなる。しかし、身体と頭の中に染み込んだサラリーマンモードは、そう簡単には消えなかった。予定を入れる。目標を決める。するべきことを考える。効率よく処理する。成果を確認する。そして、人生そのものをきちんと運営しようとする。会社を辞めても、こうしたものはかなり残っていた。

それが3年間くらい経って、ようやく相当抜けた。だから私は、「サラリーマンモードからの脱却は終わった」と思いたい。ところが最近、少し不思議なことが起きている。その後も、自分自身がどんどん変わっているのである。

まだ脱却できていないのか?

最初は少しそう考えた。37年間以上続けたサラリーマン生活である。ひょっとすると、自分では抜けたつもりでも、まだ深いところにいろいろ残っているのではないか。確かに、それもあるだろう。しかし最近は、少し違うように思い始めた。今起きている変化は、「サラリーマンモードがまだ抜けていない」からではない。むしろ逆なのではないか。サラリーマンモードが抜けたから、自分が動き始めた。そんな感じがする。

最初の3年間は「引き算」だった

振り返ると、卒サラ後の最初の3年間にやっていたことは、かなりの部分が「引き算」だった。会社という大きな構造がなくなった。役職がなくなった。仕事上の責任がなくなった。毎日の予定がなくなった。評価される必要もなくなった。それでも、自分の中には、「何かしなければ」「今日を有効に使わなければ」「きちんと運営しなければ」という感覚が残っていた。それを少しずつ手放していった。言ってみれば、会社を辞めるのは一日でできたが、会社員として作られた自分を緩めるのには3年間かかった。これが卒サラ第一期だったのだと思う。

ところが、引き算の後に何かが始まった

面白いのはその後である。余計なものを取り除いたら、「本来の自分」が出てきて、それで完成するのだと思っていたのかもしれない。ところが、そうではなかった。むしろ、そこから変化が加速した。身体を観察するようになった。生活する環境を観察するようになった。東京と箱根を行き来することで、自分の状態が環境によってかなり変わることに気づいた。さらにシンガポールという第三の環境を入れてみると、また違う自分が出てきた。人と話した後には、その人から得た情報と自分の人生を照合していることにも気づいた。「するべきこと」を減らすと、思考が勝手に脱線し、その脱線から新しいアイデアが出てくることにも気づいた。最近では、「人生を運営しすぎない」ということまで考え始めている。4年前の自分には、かなり想像しにくかったことである。

固定されていた「自己」が流動化した?

そこでひとつの仮説が浮かんだ。サラリーマン時代の私は、かなり固定されていたのではないか。もちろん毎年いろいろなことは起きる。仕事も変わる。勤務地も変わる。役職も変わる。しかし大きな枠組みは同じだった。会社員である。仕事をする。成果を出す。収入を得る。家庭を維持する。将来に備える。この外部構造が強固なので、その中にいる「私」も比較的安定していた。

ところが、その外枠を外してしまった。すると、「私」まで動き始めた。これは考えてみれば当然なのかもしれない。自己とは、身体から独立して頭の中に固定的に存在するものではない。環境と接触し、人と会い、身体が反応し、それを思考が編集しながら、絶えず作り直されている。だとすると、

環境が変わる
→ 身体の状態が変わる
→ 観察するものが変わる
→ 思考が変わる
→ 世界の見え方が変わる
→ 自分についての見方も変わる
→ 行動が変わる
→ また環境が変わる

という循環が起こる。今の私は、この循環の中にいるのかもしれない。

「新しい自分」は完成しなかった

卒サラした頃、どこかで、サラリーマンの自分 → 本来の自分という移行を想像していた気がする。古い自分を脱ぎ捨てれば、その下から本当の自分が現れる。そして、その新しい自分で残りの人生を生きていく。しかし4年間経ってみると、どうも違う。「本当の自分」という完成品が奥に隠れていたわけではなかった。外側の固定された構造を外したことで、自分そのものが、また動けるようになった。というほうが近い。これは私にとって結構大きな発見である。

脱却期から生成期へ

そこで卒サラ後の4年間を、今はこんなふうに見ている。最初の3年間は、脱却期。サラリーマンモードをひとつずつ外していった。

その後は、再編期。身体、時間、空間、関係、お金、役割などを、自分なりに組み直していった。

そして最近、さらに次の段階へ入ったような気がする。私はこれを仮に、「生成期」と呼んでみたい。もう「新しい自分を作ろう」としているわけではない。いろいろな環境へ入り、人と会い、身体を動かし、観察し、考え、文章を書く。すると、その相互作用の中から次の自分が出てくる。それをまた観察する。つまり、自分を作るのではなく、自分が生成されていく。

人生は「完成」ではなく「更新」なのかもしれない

これは、最近考えている「循環」と「螺旋」にもつながる。同じような毎日を送っている。東京へ行く。箱根へ戻る。人と会う。歩く。運動する。考える。書く。また人と会う。一見すると循環しているだけである。しかし、一周して戻ってくると、前と少し違う。同じ東京でも見え方が違う。同じ箱根でも身体の反応が違う。同じ人と話しても受け取るものが違う。同じ自分について考えても、理解が少し変わっている。円ではなく、螺旋。同じところを回りながら、少しずつ位置が変わっている。

64才になって思うこと

私は長い間、人生とはある程度「作るもの」だと思っていた。勉強する。就職する。仕事をする。家族を作る。資産を作る。老後を準備する。目標を立て、それに向かって人生を組み立てていく。これはこれで必要だった。

しかし64才になった今、少し違う人生の動かし方が見えてきた。すべてを作ろうとしなくてもよい。すべてをコントロールしなくてもよい。環境を少し変えてみる。身体の反応を見る。人と会う。歩く。静かにする。思考を少し脱線させる。そして、そこから何が出てくるのかを観察する。

4年前、私は会社を辞めた。3年間ほどかけて、サラリーマンモードからもかなり抜けた。そこで卒サラは完成するのだと思っていた。しかし、どうも逆だったらしい。サラリーマンモードから抜けたところから、本当の変化が始まった。そして最近は、こう思う。自分とは、完成させるものではない。環境と身体と人との関係の中で、死ぬまで更新され続けるものなのかもしれない。そう考えると、64才という年齢も、人生の完成に向かう時期というより、自分がこれからどう変わっていくのかを観察できる、なかなか面白い時期に見えてくる。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ジム-3人ランチ@八重洲-ジム。夕食。夕寝。阪神タイガース観戦。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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