なぜ人間は、自分のことを考え続けてしまうのか
最近、「思考とは何か」を考え続けている。今のところ、私はこう捉えている。思考は、生命体が環境と接続する過程で生じる状態の一部であり、その接続を組み替える補助機能である。人間も生命体である。環境を感じ、身体が反応し、何らかの状態になり、行動する。その行動によって環境との関係が変わり、また新しい刺激を受け取る。本来なら、環境 → 身体 → 状態 → 行動 → 環境 という循環が基本なのだと思う。思考は、その循環の途中に登場する。「こちらへ行った方がよさそうだ」「これは危険かもしれない」「次はこうしてみよう」環境との接続の仕方を組み替えるナビゲーション機能である。ところが、人間の思考には少し厄介な特徴がある。自分自身を考えることができる。
自己には二つの顔がある
世界モデルの中には、山も家も他人も自分も存在する。その意味では、自己も世界を構成する一つの対象にすぎない。「私は63歳である」「私は日本に住んでいる」「私はこういう経歴を持っている」こうした自己は、世界モデルの中に置かれた客観的な「私」である。しかし自己には、もう一つの顔がある。その世界を見ているのも私である。私は世界モデルの中の登場人物であると同時に、世界を見ている観測点でもある。つまり自己には、「見られる自己」と「見ている自己」という二面性がある。ここが、机やリンゴとは決定的に違う。机について考えても、「机について考えている机」は生まれない。ところが自己について考えると、「自分について考えている自分」が現れる。そして、その自分をさらに観察することもできる。「なぜ私はこんなことを考えているのだろう」すると今度は、「自分について考えている自分を観察している自分」が現れる。理屈の上では、これはどこまでも続けられる。
思考は、自分の出力を次の入力にできる
ここで重要なことに気づいた。最初の思考には、現実からの入力があったかもしれない。誰かに冷たくされた。そこで、「嫌われたのかな」と思う。さらに、「私は人間関係を気にしすぎるのではないか」と思う。そして、「なぜ私はこんな性格になったのだろう」と考える。最初のきっかけは「誰かに冷たくされた」という現実だった。しかし、二周目、三周目になると、新しい現実からの入力はほとんどない。前の思考が、次の思考の材料になっている。現実→思考→自己像→その自己像について思考→新しい自己像→さらに思考……こうして自己参照ループが成立する。思考には、現実から新しい情報を受け取らなくても、自分が作った情報を材料として回り続ける能力がある。これは人間にとって強力な能力である。過去を振り返り、未来を想像し、自分を修正することができる。文明を作るためにも不可欠だったはずだ。しかし同時に、ここには落とし穴もある。
「自己参照率」という見方
最近の私自身の経験から、ひとつの仮説を持つようになった。問題は、単純に「考えすぎること」ではないのではないか。重要なのは、思考の入力のうち、どのくらいが現実から来ていて、どのくらいが自分の思考から来ているのか なのではないか。仮にこれを「自己参照率」と呼んでみる。自己参照率が低ければ、現実 → 思考 → 現実 → 思考 → 現実となる。見る。歩く。人と話す。触れる。食べる。作る。また考える。思考はそのたびに現実へ戻っていく。ところが自己参照率が高くなると、現実 → 思考 → 思考 → 思考 → 思考……となる。思考の入力が、次第に現実ではなく思考そのものになっていく。すると世界モデル全体の中では小さな存在だったはずの「自己」が、意識の画面いっぱいに拡大されてくる。これが、自意識が過剰になるひとつの構造なのかもしれない。
自己を小さくしようとしてはいけない
ここで面白い逆説が生じる。「自分のことを考えすぎないようにしよう」と思う。しかし、この思考もまた自分について考えている。「もっと自意識を減らそう」これも自己についての思考である。つまり、自己を小さくしようと努力すること自体が、自己参照ループを強化する可能性がある。では、どうするのか。今回のシンガポール滞在で、その答えらしきものを身体で経験した。世界への関心を増やせばいい。歩く。街を見る。人を見る。知らない場所へ行く。人と話す。食材を買う。料理する。暑さを感じる。風を感じる。すると、自己を小さくしようと努力しなくても、自己は自然に世界モデルの中のひとつへ戻っていった。だから私は、こう考えるようになった。自己への意識を減らそうとする必要はない。世界への関心を増やせば、自己は自然に世界の一部へ戻る。
「観察に戻る」ということ
これは、次に書こうとしている本のテーマともつながってきた。私は「AI時代、人間の本業は観察に戻る」と考えている。これまでは、観察とは「現実から情報を得ること」くらいに考えていた。しかし、もう少し深い意味がありそうだ。観察とは、思考への入力源を、思考自身から現実へ戻す行為なのだ。思考を止める必要はない。自己について考えてはいけないわけでもない。思考は優秀な編集者であり、ナビゲーターである。ただし編集者には、編集するための新しい素材が必要だ。その素材を供給するのが現実である。だから、現実 → 思考 → 現実 → 思考という循環を保つ。思考が思考だけを材料にして回り始めたら、もう一度、世界を見る。歩く。誰かと話す。何かに触れる。身体を使う。世界と接続する。考えてみれば、人間はもともとそういう生命体だったはずだ。
思考は世界から離れるために生まれたのではない。
世界とよりよく接続するために生まれた。
そして自己もまた、世界から切り離された特別な存在ではない。世界を見ている主体でありながら、同時に世界の中に存在する一つの生命体なのである。思考が自己の中で回り始めたときこそ、自己についてさらに考えるのではなく、もう一度現実を見る。人間の本業は、やはり観察なのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ゴルフキャンセル。隣人と談笑。庭整備。昼食。昼寝。庭整備。家財整理。夕食。Line。阪神タイガース観戦(6連敗)。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
