自己モデル

朝食を作っただけなのに、「私」の物語が更新されていた

今朝、朝食を作って食べた。そのとき、ふと思った。私はいったい何をしていたのだろう。生命体として見れば、実に単純なことである。

腹が減った。
食材があった。
料理した。
食べた。
空腹が満たされた。

ただそれだけだ。

身体に空腹という状態が生じ、それに対応するために環境にある食材を使い、料理して食べた。現実 → 身体の状態 → 行動 → 現実への対応 生命体としては、これで話は終わっている。ところが、人間の私はそこで終わらなかった。

「シンガポールで料理の発想が広がったな」朝食を作りながら、こんなことを思った。最近、料理の発想が少し広がった。シンガポールで一週間生活したことも影響しているのかもしれない。現地のスーパーを歩いた。知らない食材を見た。自炊した。日本とは違う食生活を見た。そういう経験が、自分の料理にも少しずつ入ってきている。ここまで考えて、気づいた。私は単に朝食を作っていたのではない。「シンガポール生活によって料理の発想が広がった私」という物語を作っていた。

現実に起きたことは、朝食を作って食べた。それだけである。しかし思考のOUTPUTは、それだけではなかった。「私は少し変わった」 という自己物語が一行、更新されていたのである。

人間は現実に対応しながら「私」を作っている?

これは料理に限った話ではない。散歩する。「今日はよく歩けた」と思う。そこから、「最近、身体がよく動く」「歩く力が戻ってきた」「年齢の割には元気だ」と展開する。

文章を書く。「今日はよく書けた」から、「自分の考えが整理されてきた」「以前より文章が書けるようになった」「私は本を書く人間なのかもしれない」と展開する。

人と話す。旅行する。運動する。失敗する。褒められる。誰かに嫌な顔をされる。一つひとつは、世界の中で起きた出来事にすぎない。ところが人間の思考は、そこから、「私はどういう人間なのか」という情報を抽出している。つまり、現実との接触から二種類のOUTPUTが出ているのではないか。

ひとつは、現実への対応。もうひとつは、自己モデルの更新。

今朝なら、空腹 → 朝食を作る → 食べる → 満腹になるという生命体としてのOUTPUTと、朝食を作る → 過去と比較する → シンガポール経験を思い出す →「料理の発想が広がった私」という認知的なOUTPUTが、ほぼ同時に生まれていた。

自己とは、こうして作られているのかもしれない

私はこれまで、「自己」というものがあって、その自己が世界を経験しているように考えていた。しかし、もしかすると順序が少し違うのかもしれない。まず、現実との接触がある。身体が反応する。行動する。結果が生まれる。そして思考が、その出来事を編集する。

「うまくいった」
「以前とは違う」
「自分は変わった」
「これは自分らしい」

そうやって無数の経験を圧縮しながら、「私とはこういう人間である」という自己モデルを作り続けている。だとすれば自己とは、最初から完成して存在する何かではない。現実との無数の接触を、思考が編集・圧縮しながら作り続けているモデルなのかもしれない。しかも、そのモデルは常に更新される。今朝の朝食一回ですら、その更新材料になった。

自己物語は役に立つ

だからといって、自己物語が悪いわけではない。「料理が上達した」と思えば、次も料理したくなる。「自分は料理ができる」という自己モデルができれば、新しい料理にも挑戦しやすくなる。つまり自己モデルとは、過去の膨大な経験を、「私はこういう人間だ」と圧縮し、未来の行動に利用する仕組みでもある。これは便利だ。毎回ゼロから自分を判断する必要がない。しかし、ここに人間の面白さと危うさの両方がある。

副産物だった「私」が主役になる

生命体としての主処理は、おそらくもっと単純だった。現実に対応すること。腹が減れば食べる。危険なら逃げる。疲れれば休む。人がいれば関係を作る。ところが人間には思考がある。思考は現実への対応から意味を抽出し、世界モデルを作る。そして同時に、自己モデルまで作る。

「私はこういう人間だ」
「私はこれが得意だ」
「私はこう生きてきた」
「私はこう変化している」

こうして「私」という物語が少しずつ厚くなっていく。もしかすると、現実への対応の副産物として生まれた自己モデルを、いつしか私たちは人生の主役だと思うようになったのではないだろうか。

仏教の「空」が少しだけ身近になった

ここまで考えて、仏教の「空」という言葉が少し身近になった。私は仏教学者ではないので、仏教そのものを論じたいわけではない。ただ、固定された「私」が最初から存在しているのではなく、さまざまな条件と関係の中で「私」がその都度成立している と考えると、これまで難しく感じていた「空」や「無我」という言葉が、少し違って見えてくる。「私が存在しない」ということではない。今朝も私は料理した。食べた。美味しいと思った。考えた。確かに私はいる。しかし、「シンガポール生活で料理の発想が広がった私」という私は、どこかに固定的な実体として存在しているわけではない。過去の経験と今朝の料理を思考が結びつけ、編集し、意味づけた結果として現れた「私」である。そして明日には、また少し更新される。

思考は世界だけでなく、自分自身も編集していた

私は最近、「思考は編集者だった」という仮説を考えている。当初は、思考が現実から得た膨大な情報を整理し、世界モデルを作っているという意味だった。しかし、どうやらそれだけではない。思考が編集していた最大の対象は、自分自身だったのかもしれない。

現実に出会う。身体が反応する。行動する。そして思考が、「この経験は自分にとって何だったのか」と編集する。そのたびに「私」が少しずつ書き換えられる。

今朝、私はただ朝食を作って食べただけだった。生命体としては、それで十分だった。しかし思考は、その小さな出来事さえ見逃さなかった。「シンガポール生活で料理の発想が広がった私」という一行を、私という物語に書き加えていた。朝食を食べ終わったとき、お腹が満たされていただけではない。「私」まで、少し更新されていた。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ガソリンスタンド-買物-昼食(韓国)-ジム-買物。夕食。夕寝。Line。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

コメントする