自分のことを考え続ける

なぜ人間は「自分」を見てしまうのか

最近、「思考とは何か」を考えているうちに、ひとつ面白い問題にぶつかった。人間は、なぜこれほど自分のことを考えるのだろう。目の前に現実がある。人がいる。景色がある。仕事がある。食べ物がある。自分の身体が動いている。ところが私たちは、現実そのものを見るだけでは終わらない。

現実に対応している「自分」を見てしまう。

「私はどう感じているのだろう」
「私はどう見られているのだろう」
「今の発言はまずかったのではないか」
「なぜ私はこんなことを気にするのだろう」

世界を見ていたはずなのに、いつの間にか視線が自分へ折り返している。なぜこんなことが起きるのだろう。

自己は、世界の中にいると同時に、世界を見ている

自己には不思議な二面性がある。私は世界の中に存在している。山や家や他人と同じように、世界モデルの中に「私」という一人の人間がいる。これは客観としての自己である。ところが同時に、その世界を見ているのも私である。自己は「見られる対象」であると同時に、「見ている主体」でもある。

机には、この二面性はない。机について考えても、「机について考えている机」は現れない。ところが自分について考えると、「自分について考えている自分」が現れる。さらに、「なぜ私はこんなことを考えているのだろう」と、その自分を観察することもできる。ここから自己参照が始まる。

そもそも自己モデルは何のためにあるのか

もっと原始的な生命体まで戻って考えてみる。生命体にとって重要なのは、環境に対応することだったはずだ。

暑い。
寒い。
腹が減った。
危険だ。
疲れた。
逃げられる。
まだ動ける。

つまり、環境を感知する→ 自分の状態を把握する→ 行動するという循環である。この意味での自己モデルは、「私は何者か」という哲学的な自己ではない。もっと実務的なものだ。「この身体は、いまどこにいて、どんな状態で、何ができるのか」という、生命体としての現在地情報である。自己モデルも、本来は世界と接続するための道具だったのだと思う。

ところが、人間の環境には「他者」がいる

人間の場合、事情が少し複雑になる。生存にとって極めて重要な環境の一部が、他者になったからだ。人間は集団で生きる。

協力する。
競争する。
助けてもらう。
助ける。
信頼される。
嫌われる。
仲間から排除される。

すると、単に世界を見るだけでは足りなくなる。相手が何を考えているのかを推測する必要がある。さらに、「相手から自分はどう見えているのか」まで推測できた方が有利になる。ここで自己モデルは一段複雑になる。「私はどういう状態か」だけではなく、「私は相手からどう見えているか」という自己が加わる。つまり人間は、他者の視点を借りて、自分を見るようになった。これが自意識の原型なのかもしれない。

自己参照は、本来とても役に立つ

たとえば、誰かと話していて相手の表情が曇ったとする。「何かまずいことを言ったかな」と考える。さらに、「少し言い方が強かったかもしれない」と自分を見る。そして、「次はもう少し柔らかく言おう」と行動を修正する。これは素晴らしい能力である。流れとしては、現実→ 自己が反応する→ 反応している自己を見る→ 思考する
→ 行動を修正する→ 現実
となる。自己参照は、現実から逃げるために生まれたのではない。むしろ、現実との接続を改善するためのフィードバック機能だったのではないか。

しかし、人間の思考には一つ困った能力がある

思考は、自分が作ったものを次の思考の材料にできる。「あの人は私を嫌っているかもしれない」と考える。すると今度は、「なぜ私は人から嫌われることをこんなに気にするのだろう」と考える。さらに、「私は自意識が強すぎる人間なのではないか」と考える。そして、「昔からそうだったのではないか」と過去を探し始める。最初には現実があった。しかし二周目、三周目には、新しい現実からの入力がほとんどない。前の思考が、次の思考の入力になっている。

すると、現実 → 自己参照 → 自己参照 → 自己参照 → 自己参照……というループが成立する。ここが面白い。問題は「自分について考えること」そのものではない。自己参照が、現実との循環から切り離されることなのではないか。

言語と文明が、さらに自己を大きくした

人間には言語がある。「今日は人とうまく話せなかった」という出来事を、「私は人付き合いが苦手だ」という自己像に変換できる。さらに、「昔からそうだった」「これからも変わらないだろう」と、過去と未来までつなげることができる。そして文明社会には、肩書き、学歴、収入、財産、評判、成功、失敗、SNS、老化……自己について考える材料が大量にある。自己は世界モデルの中の小さな一要素であるはずなのに、思考の中では巨大な存在になり得る。考えてみれば、自己は極めて特殊な対象である。

世界の中に存在する対象であり、世界を見る主観的な起点であり、さらに他者から見られる社会的な対象でもある。この三つを同時に備えている。だから自己には、思考を引き寄せる強い重力があるのかもしれない。

自己を見ないようにする必要はない

では、どうすればいいのか。「自分のことを考えないようにしよう」ではないと思う。なぜなら、「自分のことを考えすぎている自分」を気にしている時点で、すでに自己参照だからだ。自己参照そのものは必要な機能である。大切なのは、そこから再び現実へ戻ることだ。

現実→ 自己→ 自己参照→ 接続の組み替え→ 現実この循環を保てばいい。歩く。見る。人と話す。料理する。身体を動かす。何かを作る。知らないものに出会う。すると、自己を小さくしようとしなくても、自己は自然に世界の一部へ戻っていく。

観察とは、現実へ戻ること

最近私は、「AI時代、人間の本業は観察に戻る」と考えている。この「観察」の意味も、少しずつ深まってきた。観察とは、ただ周囲をよく見ることではない。そして思考を止めることでもない。自己参照によって得た情報を携えて、もう一度、現実との循環へ戻ることなのではないか。思考は編集者である。自己モデルもナビゲーションのための道具である。自意識さえ、本来は世界との接続を改善するための機能だったのかもしれない。だから、それらを捨てる必要はない。ただ、編集者には新しい素材が必要だ。その素材を供給してくれるのは、思考ではない。現実である。思考が自分自身を材料にして回り始めたら、世界へ戻ればいい。

見る。
聞く。
歩く。
触れる。
話す。

そして、また考える。

思考は世界から離れるために生まれたのではない。世界とよりよく接続するために生まれた。だとすれば、自己について考え続けてしまう人間に必要なのは、自己を消すことではない。自己を、もう一度世界との循環の中へ戻すことなのだ。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。家財整理。昼食。ゴミ捨て-映画-喫茶。夕食。Line。阪神タイガース観戦。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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