人間は自然の一部

「人間は自然の一部でありながら偶然にも自己意識を持ってしまった存在」最近、自分の中で長く漂っていた霧が、一気に晴れるような感覚があった。

きっかけは、「波」と「海」の比喩だった。

最初は、仏教の「空(くう)」を説明するために使っていた。波は形を持っているように見える。しかし実体として固定されたものではない。海面の一時的な現れに過ぎない。人間の「自己」もまた、それに近いのではないか――そんなことを考えていた。

ところが、考えているうちに、ある瞬間ふと気づいた。私は「波」を説明しようとしていたのではなく、ずっと「海」を求めていたのではないか、と。

その瞬間、自分の中で色々なものが一本につながった。

なぜ人は、祭りで高揚するのか。
なぜスポーツ観戦で泣くのか。
なぜ「推し」に没入するのか。
なぜ音楽ライブで一体感を求めるのか。
なぜ夫婦や家族との静かな時間に安心するのか。
なぜ自然の中で深呼吸したくなるのか。

それらは全部、「海」へ戻ろうとする感覚だったのではないか。現代人は、「自己」を強く持ちすぎた存在なのかもしれない。

比較。競争。承認。自己責任。役割。成果。最適化。

現代社会は、「強い個」として生きることを求める。常に「波」であり続けることを要求する。しかし、本来の人間は、もっと「海」に近い存在だったのではないだろうか。

人類の歴史を振り返ると、人間の大部分の時間は、狩猟採集生活の中にあった。そこでは、自然・共同体・身体感覚・長い時間の流れの中で生きていた。もちろん厳しい世界だったが、「自分」という境界は、今ほど強固ではなかったようにも思う。

ところが、人類は進化の過程で、偶然にも「自己意識」を持ってしまった。

自分を客観視できる脳。未来を想像できる脳。死を予測できる脳。比較し、物語を作り、意味を求める脳。

その結果、人類は文明を築いた。科学も、国家も、貨幣も、AIも、すべて自己意識の延長線上にある。しかし同時に、人間は苦しみも抱えるようになった。

「自分」が強くなり過ぎたのである。

私は卒サラ後の数年間、空洞感のようなものを感じていた。しかし今振り返ると、それは「自分を失った」というより、「強すぎた自己」が少し緩み始めていた時間だったのかもしれない。

箱根での生活。朝ヨガ。睡眠。空間づくり。夫婦の時間。情報量を減らすこと。自然の空気。呼吸。

そうしたものを整えていく中で、私は少しずつ、「波」だけではなく「海」を感じられるようになっていった。もちろん、波は必要である。社会で生きる以上、役割も、お金も、境界も必要だ。文明OSを否定して生きることはできない。

しかし重要なのは、「波しか見えなくなること」なのだと思う。波は海の一部である。

人間は、自然の一部でありながら、偶然にも自己意識を持ってしまった存在なのかもしれない。そして現代人の苦しさの一部は、「波」である自分を強く持ち過ぎたことから生まれているのではないだろうか。

だから人は時折、「海」を求める。安心。一体感。没入。余韻。共同体。自然。祈り。芸術。愛。静かな時間。それらはすべて、「自己」を消すためではなく、「自己は海の一部だった」と思い出すためにあるのかもしれない。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。外食朝食。飲茶昼食-観光-喫茶。休息。大河ドラマ鑑賞。自宅夕食。執筆。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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