AI時代と人間

AI時代、人間の本業は観察に戻る。

電卓が普及したとき、多くの人は「暗算力が衰える」と心配した。実際、その通りだった。日常生活で頭の中だけで計算する機会は減った。しかし、本当に起こった変化は別のところにあった。

人は電卓によって、より複雑な計算を短時間で行えるようになった。さらにスプレッドシートが登場すると、一度数式を組むだけで、何千件ものデータを瞬時に分析できるようになった。手計算は減ったが、その代わりに、これまで扱えなかった高度な問題へ取り組めるようになったのである。

つまり、人間は「計算する人」から、「何を計算するかを考える人」へと役割を変えたのである。

私は、AIもまったく同じ変化をもたらすと考えている。

AIは、文章を書く、要約する、翻訳する、比較する、アイデアを整理するといった「思考の言語化・編集」を急速に担い始めている。その結果、人間が頭の中だけで文章を組み立てたり、知識を整理したりする機会は確かに減るかもしれない。

しかし、その一方で、人間はAIを使いながら、これまでひとりでは扱えなかった量の情報を統合し、多様な視点を比較し、何度も仮説を試しながら、より高度な知的課題へ取り組めるようになる。

つまり、人間は「考える人」から、「何を観察し、何を問い、何をAIに編集させるかを決める人」へと役割を変えていくのである。AIが担うのは思考そのものではない。思考の言語化と編集である。

だからこそ、人間の価値は、編集の前にある「現実と出会うこと」へ戻っていく。

身体で観察すること。
問いを立てること。
実験すること。
創造すること。

それがAI時代の人間の本業になる。


実は、人間の思考は現実、つまり「今ここ」にいる時間が意外と少ない。

家の鍵をかけた瞬間でさえ、頭はすでに次の予定や仕事へ向かっていることが多い。そのため、あとになって「鍵をかけたっけ?」と思い返すことになる。

思考は未来を先回りするようにもともと設計されているのである。

人類の歴史は約600万年間だ。その長い時間の中で、人間はちょっと先を予測する能力を少しずつ高めて生存確率を高めてきた。さらに数万年前、高度な言語を獲得すると、人類は経験を言葉として圧縮し、世代を超えて共有できるようになった。ちょっと先を予測する力は飛躍的に高まり、それが農業、都市、科学、経済へとつながり、文明が生まれた。

しかし、その代償として、人間の思考は「今ここ」を離れ、遠い未来まで走り回るようになった。だからこそ、人は古くからヨガや瞑想、宗教などを通して、意識を再び「今ここ」へ戻そうとしてきたのではないだろうか。もっと身近な例もある。農村部の日常生活を観察すると、「今ここ」へ意識を戻す仕掛けが数多く残っている。畑の様子から季節を感じる。天候を読みながら作業を進める。草木や動物の変化に目を向ける。身体を使って自然と向き合う時間が、ごく自然に意識を「今ここ」へ戻しているのである。相撲の世界でいう「一日一番」という言葉も、結局は同じことを指しているように思う。


私たちは長い間、未来に重心を置き、計画を立て、情報を整理し、文章を書き、頭の中で何度も編集を繰り返すことに、多くの認知資源を使ってきた。

その一方で、「今ここ」に十分意識を向けられないという弊害も目立つようになった。目の前の人の話を聞きながら次の予定を考えてしまう。食事をしながら仕事のことを考える。散歩をしながらスマートフォンを見続ける。家の鍵をかけた直後なのに、「鍵をかけたっけ?」と不安になる。身体は確かに「今ここ」にいる。しかし、思考は未来や別の場所を走り回っているのである。思い当たる節はないだろうか。


AIは、こうした編集作業のかなりの部分を引き受け始めている。これは、人間が考えなくなるということではない。考えることの質が変わるのである。編集という作業をAIへ外部化することで、人間は再び身体を通して現実と出会う時間を取り戻すことができる。

人間の認知活動は、おおまかに言えば、

身体が現実と出会う → 観察して問いを立てる → 思考が言語化・編集する → 行動・表現・創造する → 再び現実と出会う

という循環で進んでいる。AIが担い始めたのは、この中の「思考が言語化・編集する」部分である。身体が現実と出会い、観察し、問いを立てること。そして編集された知を現実の中で試し、新たな経験へつなげることは、これからも人間の仕事として残り続ける。

私たちが大切にしたいのは、編集や言語化の前にある「言葉になる前の世界」である。目の前の人と対話する。自然を観察する。身体の変化に気づく。違和感を感じる。そこから新しい問いが生まれる。その場所こそ、人間にしか担えない創造の源泉なのである。なお、編集とは、経験や情報を整理し、意味づけし、新しい知や物語として再構成する働きをいう。


その観察から生まれた問いや発見を、AIとともに何度も編集し、知識へ、物語へ、新しい創造へと育てていく。AI時代とは、人間が思考を捨てる時代ではない。思考を外部化することで、人間は再び「今ここ」に戻り、本来の仕事である観察と創造に、より多くの時間を使えるようになるのである。電卓やスプレッドシートが計算能力を拡張したように、AIは人間の編集能力を拡張する。

だからAI時代とは、人間の知性が衰える時代ではない。

人間が「現実と出会う力」と「創造する力」を取り戻し、その知的活動がこれまで以上に高度化し、迅速化していく時代なのである。


人間の役割は、新たな道具を得るたびに消えるのではない。道具が補助機能を担うことで、人間はより本質的な役割へ戻ってきた。石器は腕の力を拡張した。火は調理を可能にし、人間の消化を助けた。言語は経験を共同体へ広げた。文字は記憶を紙へ外部化した。電卓は計算を外部化した。スプレッドシートは分析を外部化した。そしてAIは、思考の言語化・編集を外部化し始めている。

人間の脳は、進化の過程でわずかに縮小してきたことが知られている。その理由はひとつではないが、道具や言語、文字、社会的な知識共有によって認知機能の一部を外部へ委ねられるようになったことも、ひとつの要因ではないかと考えられている。もしそうだとすれば、AIもまた、その延長線上にある技術なのだろう。

私たちは、その変化を「思考そのものがAIへ置き換わる」と受け止め、大きな転換点が来たように感じているのかもしれない。しかし、電卓やスプレッドシートが人間をより高度な計算へ導いたように、AIもまた、人間をより高度な観察、問い、創造へ導いていくのだろう。


以上の文章は、ある宴席で「AI時代の人間」が話題になった翌朝、私がAIとの対話を重ねながら、およそ2時間でまとめたものである。もちろん、その2時間で人類史やAI論を考えたわけではない。そこに至るまでには、卒サラ後の3年間、人間という生命体を観察し、人類史を学び、自分自身の生活を見つめ続けた時間があった。

AIが担ったのは、その蓄積を言語化し、編集し、構造化して文章へ仕上げる役割である。一方で、私が担ったのは、現実と出会い、観察し、問いを立て続けたことであった。この役割分担こそ、AI時代の知的創造の基本形なのではないだろうか。

「AIは人間の仕事を奪う」と語られることが多い。確かに、現在の分業の中にはAIへ置き換わる仕事もあるだろう。しかし、それは人間の価値が失われることを意味しない。

重要なのは、「仕事が奪われるかどうか」ではない。人間の役割そのものが変わることである。人間は現実と出会い、観察し、問いを立てる。AIは、その経験を言語化し、編集する。そして人間は、その編集を手がかりに再び現実を観察し、新しい問いを見つける。この循環こそが、AI時代の知的創造の基本形なのである。

AI時代、人間は観察し、問いを立て、創造するという、本来の役割へ戻っていく。その循環の中で、人間とAIは、ともに新しい知を育てていく。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+ピラティス。朝食。執筆。昼食。執筆。スタバ-10人宴席@三田。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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