長年連れ添った夫婦は、どこまで「自己」になるのか
最近、「自己とは何か」を考えている。考え始めると、これがなかなか難しい。自己とは、身体の中にいるひとりの司令官ではない。むしろ脳は、世界を生きるために「世界モデル」を作り、その中に「自己モデル」を置いているのではないか。私はどこにいるのか。何ができるのか。何を持っているのか。誰と関係しているのか。そして自己モデルを時間軸上に展開すると、「私はこういう人生を歩んできた」という自己物語が生まれる。ここまで考えて、ふと気になった。では、長年一緒に暮らしている夫婦は、互いの自己モデルの中にどのように組み込まれていくのだろう。
最初は「他者」である
当然ながら、夫婦も最初は他者である。自分とは別の身体を持ち、別の思考を持ち、別の人生を歩んできた人間だ。ところが関係が長くなると、「妻に対する私」「夫としての私」という新しい自己が形成されていく。ひとりならしないことをする。相手の好みを考える。相手の予定を考える。相手がどう感じるかを予測する。つまり、自己モデル+他者モデルの間に、「関係の中の自己」が生まれる。私は単に「私」であるだけでなく、「妻の夫である私」にもなる。
やがて「妻がいる世界」が普通になる
しかし、何十年間も一緒に生活すると、もっと深いところまで入り込んでいくのではないか。朝起きれば相手がいる。一緒に食事をする。予定を相談する。家事を分担する。何かあれば話す。相手の物音がする。そういう生活が何十年間も続く。すると脳にとって、「妻がいる」ということは毎朝確認する情報ではなくなる。「この世界には妻がいる」こと自体が、世界モデルの前提になる。
ここが面白い。世界モデルには、「妻がいる世界」が組み込まれる。自己モデルには、「妻と暮らしている私」が組み込まれる。関係的自己として、「夫としての私」が形成される。さらに自己物語には、ふたりでこういう人生を歩いてきた私」が積み上がる。妻という存在が、複数の階層に書き込まれていく。
さらに身体にも入り込む
そして夫婦関係は、思考の中だけの話ではない。声。足音。気配。生活時間。食事。距離。匂い。触れること。寝る場所。こうしたものも、長い年月をかけて身体にとっての「いつもの環境」になる。安心できる関係なら、相手がいること自体が、「ここは安全である」という身体へのシグナルになっている可能性もある。そう考えると、配偶者は単に自己モデルの中に存在しているだけではない。もっと下層の、身体―環境システムにも組み込まれている。頭で「妻がいる」と考える以前に、身体が妻のいる環境を日常として学習している。
「私」だけでなく「私たち」が生まれる
さらに長期の夫婦には、興味深い変化が起きる。「私の家」が、「私たちの家」になる。「私の予定」が、「私たちの予定」になる。「私の老後」が、「私たちの老後」になる。将来を考えるときにも、最初から相手が入っている。ここでは意思決定の単位が部分的に、IからWeへ拡張している。もちろん、ふたりがひとつの人間になるわけではない。身体も違う。思考も違う。欲求も違う。それぞれ独立した生命体である。それでも、「私」と「あなた」の上に、「私たち」という第三のモデルが形成される。これは夫婦関係を考えるうえで、とても重要なのではないか。
配偶者は「外部装置」にもなる
さらに考えてみると、長年の配偶者は、自分の認知機能の一部まで補完している。「あの予定、来週だったよね」「あれはどこに置いた?」「あなた、今日は少し疲れているんじゃない?」「最近そればかり言っているよ」自分が忘れていることを覚えている。自分が気づいていない変化を見ている。自分では見えない自分を教えてくれる。つまり配偶者は、他者でありながら、自分の外部記憶でもあり、外部観察者でもあり、外部調整装置でもある。これはメタ認知とも関係してくる。自分の思考を自分で観察するのがメタ認知だとすれば、長年の配偶者は、「自分を外側から見てくれる、もう一つの観察点」にもなっている。
だから配偶者を失うということは
ここまで考えると、長年連れ添った配偶者を失うことの大きさも違って見えてくる。失うのは、「大切な人」だけではない。妻がいる世界。夫としての自己。ふたりで歩んできた自己物語。ふたりを前提として描いていた未来。身体が慣れ親しんだ生活環境。自分を補完してくれていた外部記憶や外部観察者。それらが同時に失われる。つまり死別とは、悲しい出来事であるだけでなく、世界モデルと自己モデルの大規模な再構築を迫られる出来事なのかもしれない。「妻を失ったあと、自分が誰なのかわからなくなった」という感覚が起きても、不思議ではない。「妻がいる私」が、長い年月をかけて自己モデルの深いところまで組み込まれていたからだ。
自己の境界はどこにあるのか
ここまで考えると、そもそもの問いに戻ってくる。自己はどこまでなのだろう。皮膚の内側だけなのだろうか。生命体として見れば、身体の境界は比較的はっきりしている。しかし自己モデルという観点から見ると、境界はそれほど単純ではない。妻。家族。家。仕事。友人。社会。それらとの長期的な関係が、「私とは何者か」というモデルに入り込んでいる。だとすると自己とは、身体の中に閉じ込められた固い実体というより、世界との関係によって絶えず形成され続けるモデルなのかもしれない。
その中でも夫婦関係は特殊だ。何十年間にもわたり、同じ空間で生活し、互いを観察し、互いに調整しながら生きる。ふたつの生命体は別々のままでありながら、互いをそれぞれの世界モデルと自己モデルの中に深く組み込んでいく。そして、その上に、「私たち」という共有モデルを作る。夫婦とは、ふたりがひとつになることではない。「私」と「あなた」が残ったまま、その間に「私たち」が育っていくことなのかもしれない。そう考えると、長年連れ添った配偶者は単なる「最も身近な他者」ではない。他者でありながら、自分を構成する世界の一部でもある。
自己について考えていたはずなのに、いつの間にか夫婦関係にたどり着いた。しかし考えてみれば当然なのかもしれない。「自己とは何」を本当に考えようとすれば、「自己はどこまで他者を含んでいるのか」という問いを避けて通ることはできないのだから。
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