「今日は何があるだろう」から「今日もやるべきことがある」へ
最近、自分の中にある変化に気づいた。朝起きると、「今日は何があるだろう」と思っているのである。別に特別な予定があるわけではない。旅行に行くわけでもない。大きなイベントがあるわけでもない。それでも、何となく今日という一日に興味がある。何か発見があるかもしれない。面白い言葉が見つかるかもしれない。誰かとの会話の中で気づきがあるかもしれない。そんな感覚で朝を迎えている。
振り返ると、この感覚は子どもの頃に近い。子どもは、「今日は何があるだろう」で生きている。公園で何が見つかるだろう。友達と何をして遊ぼう。知らない虫がいるかもしれない。面白いことが起きるかもしれない。未来は課題ではなく探検だった。
ところが大人になると少しずつ変わる。朝起きると、「今日もやるべきことがある」になる。仕事。会議。締切。家事。手続き。メール。予定。もちろん、それらは大切なことである。社会は責任によって成り立っている。しかし気づかないうちに、人生そのものが「やるべきこと」の集合体になっていく。
私自身も長い間そうだった。現役時代は毎日忙しかった。常に次の予定を考えていた。何を達成するか。何を解決するか。何を改善するか。それが当たり前だった。
しかし卒サラ後、少しずつ変化が起きた。睡眠を整えた。ヨガを始めた。散歩をした。料理を覚えた。ブログを書いた。本を書き始めた。人類史を学んだ。AIと対話した。そうした生活の中で、私はあることに気づいた。人間は本来、「やるべきこと」だけで動くようには設計されていないのではないか。安心がある。余裕がある。すると好奇心が動き出す。好奇心が動けば、人は自然に世界へ手を伸ばす。それは努力とは少し違う。もっと軽やかなものである。
私が今感じているワクワク感もそこから来ている気がする。
もちろん63歳になっても問題はある。身体も若い頃とは違う。人生には限りも見えてくる。それでも、「今日は何があるだろう」と思える。それは若返ったからではない。むしろ、人間が本来持っていた感覚を少し取り戻したのかもしれない。
最近思う。人生の豊かさとは、やるべきことがなくなることではない。そして大きな成功を手に入れることでもない。朝起きた時に、「今日は何があるだろう」と思えること。それこそが、人間という生命体にとって自然な状態なのではないだろうか。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。移動準備。箱根峠-ごみ捨て-昼食@海老名SA-新中野。不在時対応。大相撲観戦。夕食。阪神タイガース観戦。執筆。 就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
