AIと人間

AIは思考を奪うのではない。編集を外部化する。

生成AIが普及し始めた頃、多くの人は「AIが人間の思考を代替する」と語った。確かに、文章を書き、要約し、企画を考え、質問に答える姿を見ると、そのように感じるのも無理はない。

しかし、AIと対話を重ねるうちに、私は少し違う見方をするようになった。

AIが代替しているのは、人間の思考そのものではない。思考の中にある「編集」という機能なのである。

私は、人間の認知にはふたつの情報ルートがあると考えている。

ひとつは、人間という生命体が現実を身体で受け取る「一次ルート」である。五感を通して世界と出会い、安心や快、疲れ、違和感といった「言葉になる前の世界」を感じ取る経路だ。

もうひとつが「二次ルート」である。一次ルートで受け取った体験を、言葉や概念、物語へ編集し、世界を理解できる形にする経路である。この二次ルートには、主に五つの働きがある。

①言語化する──「何となく落ち着く」という感覚を「安心」と名付ける。②編集する──情報を整理し、要約し、構造化し、物語へまとめる。③意味づけする──「なぜ安心したのか」「この経験は何を意味するのか」を考える。④未来をシミュレーションする──「次はこうしてみよう」「こうなるかもしれない」と予測する。⑤判断・選択する──複数の可能性から行動を選ぶ。

生成AIは、この中でも特に①言語化と②編集を得意としている。さらに、③意味づけや④未来シミュレーション、⑤選択肢の比較についても強力な支援を行う。今後、思考AIやエージェントAIへ進化していけば、これらの支援はさらに広がっていくだろう。

つまり、人間の思考とAIには共通点がある。どちらも、「ぼんやり」を「くっきり」にする編集機能なのである。しかし、決定的な違いもある。

人間の思考の入力は、身体が現実から受け取った「一次ルート」である。一方、AIの入力は、人間が言葉や画像、データとして表現した情報である。AIには身体がない。風の心地よさも、温泉の温かさも、安心や疲れも直接感じることはできない。だから、人間は「一次ルート」と「二次ルート」を持つ二段構造なのに対し、AIは巨大な「二次ルート」だと言える。ここでいう「巨大」とは、人類が積み重ねてきた膨大な知識や文章を学習し、編集能力を極めて高い水準で発揮できるという意味である。

では、人間の二次ルートの中でも、とりわけ負荷の大きい編集作業をAIへ任せると、何が起こるのだろうか。私は、人間の認知資源の配分が変わるのではないかと考えている。これまで編集に使っていた認知資源を、編集の前後へ振り向けられるようになる。

編集の前には「観察」―インプットがある。現実と出会うこと。身体で感じること。違和感に気づくこと。問いを見つけること。

そして編集の後には「創造」―アウトプットがある。新しい考えを生み出すこと。実験すること。表現すること。社会へ届けること。

電卓・スプレッドシートが計算・分析能力を外部化し、人間が計算作業から解放され「何を計算するか」を考えるようになったように、生成AIは編集能力を外部化し、人間は「何を観察するか」「何を問いにするか」「何を創造するか」へ、より多くの認知資源を使えるようになるのではないだろうか。

人間の認知資源の有限性を悪用した特殊詐欺が多発していることから明らかなように、人間の認知資源は有限である。特殊詐欺は、騙す技術ではなく、認知資源を枯渇させる技術でできている。情動を揺らして論理的処理を不能にする。緊急性を演出して判断資源を奪う。恐怖で注意を一点に固定させる。選択肢を狭めて思考の自由度を奪う。時間制限でワーキングメモリを圧迫する。

人間の認知資源は有限であるという制約の下、AIは、人間から思考を奪う技術ではない。思考の編集機能を外部化することで、人間を再び現実へ送り返す技術である。だからAI時代とは、人間の知性が衰える時代ではない。観察と創造という、人間本来の知的営みが、もう一度中心へ戻ってくる時代なのかもしれない。

そして、もうひとつ大きな可能性がある。

私は、人間の思考は本来、人生のドライバーではなく、少し先を見通すための「ナビ」だったと考えている。しかし、言語と文明の発達によって、思考は次第に主人公となり、人生そのものを運転するドライバーのように振る舞うようになった。情報社会になりその弊害が許容しがたいものになっているのかもしれない。もし生成AIが思考の編集を担うようになれば、人間は思考を人生の主人公から降ろし、本来の役割である「ナビ」へ戻せるかもしれない。そうなれば、人間は再び身体を通して現実と出会い、観察し、問いを立て、創造することを知性の中心に据えられる。AIは、人間に代わる知性ではない。人間の知性を、本来の姿へ戻すための「鏡」なのかもしれない。

そして、もうひとつ大きな気づきがある。

AIによって、思考の中核である編集機能を外部化できることが見えてきた。もし思考の中核機能を外部へ委ねられるのだとすれば、それは何を意味するのだろうか。もしかすると、思考は生命活動そのものではなく、生命活動を支える高度な補助機能なのではないだろうか。

人間という生命体の中心にあるのは、身体を通して現実と出会い、感じ、観察し、問いを立て、創造し、その創造が新たな現実との出会いを生むという、終わりのない循環的な営みである。思考は、その体験を言葉や概念へ編集し、未来を少し先まで見通すために進化した機能だったのかもしれない。言語や文明は思考に巨大な力を与えた。その結果、本来は人生のナビだった思考が、いつの間にか人生のドライバーとして振る舞うようになったのかもしれない。

もしこの仮説が正しいなら、AI時代は人間から思考を奪う時代ではない。思考を本来の役割へ戻し、人間という生命体を本来の循環へ戻す時代なのである。

特殊詐欺が人間の認知資源を一時的に奪うように、現代文明もまた、知らず知らずのうちに認知資源を消費させる仕組みを持っているのかもしれない。違いは、前者が数十分間で起こる急性の現象であり、後者が何年、何十年間とかけて進む慢性の現象である。その結果、人間は現実を起点として観察し、問いを立て、創造するという本来の循環から、未来へのシミュレーションを起点とする循環へ、少しずつ重心を移してきたのではないだろうか。

文明は人間に大きな力を与えた。しかし同時に、思考を人生の主人公へ押し上げ、認知資源を未来へ向け続ける環境も生み出した。AIは、その編集機能を外部化することで、思考を本来の「ナビ」へ戻し、人間をもう一度「今ここ」の現実へ戻す契機になる可能性を秘めている。

人間という生命体は、認知資源が有限であるという制約のもとで設計されている。だから文明もAIも、その有限な認知資源をどこへ配分するかという問題として理解できる。そして、その配分の違いが、人間を未来重心へ向かわせるのか、それとも「今ここ」の観察と創造の循環へ戻すのかを決めるのである。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+ピラティス。朝食。執筆。買物。料理。昼食。昼寝。AI対話。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

コメントする