「自己」は一つではないのかもしれない
最近、「自己」について考えている。考えれば考えるほど、「私」という一人の人間が身体の中にいて、すべてを統括しているというイメージから離れていく。身体は分散システムとして外部環境に反応している。思考は、その上で世界モデルを作り、大きな方向性を示すナビゲーターとして働いている。そして世界モデルの中には、「自己モデル」がある。ここまでは、かなり整理できてきた。
ところが、もうひとつ気になり始めた。そもそも「自己」は一種類なのだろうか。どうも違うような気がする。人間は進化と文明の過程で、必要に応じていくつもの「自己」を積み重ねてきたのではないか。
モデルとしての自己
一番下にあるのは、モデルとしての自己だろう。世界の中で、この身体はどこにあるのか。何ができるのか。何を欲しているのか。疲れているのか。危険なのか。自分と外界との境界はどこなのか。人間が生きていくためには、「世界がどうなっているか」という世界モデルだけでは足りない。「その世界の中で、自分がどういう状態にあるのか」も把握する必要がある。だから世界モデルの中に自己モデルが作られる。これはかなり根源的な「自己」である。いわば、生存するための自己だ。
他者と付き合うための自己
ところが、人間はひとりでは生きてこなかった。集団の中で生きる社会的動物である。そうなると、「自分が自分をどう認識しているか」だけでは足りなくなる。「他者から見た自分は何者なのか」が重要になる。親と子。夫と妻。仲間。友人。リーダー。集団の一員。他者との関係によって、「私」は違う姿を持つ。ここで必要になるのが、関係の中の自己なのだろう。そして人間関係を長く維持するためには、ある程度の一貫性も必要になる。昨日は約束を守る人だったのに、今日はまったく別人では困る。「あの人はこういう人だ」「私はこういう人間だ」というモデルを、自分も他者も持つようになる。ここから、自己物語が重要になってくるのではないか。
時間を生きるための自己
自己モデルは、「現在の私」を表現できる。しかし人間は、現在だけを生きているわけではない。昨日の経験から学び、今日行動し、明日に備える。何年もかけて人間関係を築く。子どもを育てる。将来のために蓄える。すると、過去の私 → 現在の私 → 未来の私をひとつにつなぐ必要が出てくる。そこで思考は、自己モデルを時間軸上で編集する。「あのとき、こういうことがあった」「その経験によって私は変わった」「だから今の私はこういう人間だ」「これから私はこう生きていく」自己物語の誕生である。自己物語とは、自分を飾るために作られたものではなく、もともとは時間をまたいで自分を運用するための機能だったのかもしれない。
文明で生きるための自己
そして人類は文明を作った。農耕。都市。国家。貨幣。法律。所有。学校。会社。職業。肩書。人間は、顔見知りだけの小さな集団ではなく、見知らぬ人々と巨大な制度の中で生きるようになった。すると、さらに新しい自己が必要になる。私は日本人である。私は会社員である。私は部長である。私はこの大学を卒業した。私はこの資格を持っている。私はこの土地を所有している。私はこれだけの資産を持っている。これは、文明の中で生きるための自己である。いわば「制度化された自己」だ。文明社会を生きるには、極めて便利である。むしろ、これなしには現代社会は成立しない。
自己は積み重なっている
こうして並べてみると、「自己」が一枚岩ではないことが見えてくる。生命体としての自己 身体を維持し、生存する。→ モデルとしての自己 世界の中で自分を位置づける。→ 関係の中の自己 他者との関係を維持する。→ 物語としての自己 過去・現在・未来の自分をつなぐ。→ 文明の中の自己 制度・役割・肩書・所有などによって自分を位置づける。下の自己が消えて、上の自己に置き換わったわけではない。古い層の上に、新しい層が積み重なっている。人間は今でも生命体であり、その上で社会的動物であり、さらにその上で文明人なのである。
問題は、上の自己が大きくなりすぎることかもしれない
ここで、自分自身のサラリーマン生活を振り返ってみる。会社名。役職。仕事内容。成果。評価。収入。キャリア。「私は何者か」を説明しようとすれば、その多くが文明的な自己だった。もちろん、それが悪いわけではない。会社という巨大な仕組みの中で生きるためには必要だった。問題は、それがあまりに大きくなることなのかもしれない。文明の中の自己が巨大になると、その下にある自己が見えにくくなる。身体がどう感じているか。どんな環境なら自然に動くのか。誰といると安心するのか。何を食べたいのか。眠いのか。歩きたいのか。ただ静かにしていたいのか。生命体としては極めて重要な情報なのに、文明的自己から見れば、取るに足らない情報になってしまう。
卒サラとは「自己を一枚剥がすこと」だったのか
私は還暦で会社員生活を終えた。あれから4年。最近になってようやく、「サラリーマンモードが抜けた」と感じるようになった。なぜ4年もかかったのだろう。その理由が、少し見えてきた気がする。会社を辞めること自体は、一日でできる。しかし、「会社員としての自己」を外すことには時間がかかる。何十年もかけて巨大化した文明的自己だからだ。卒サラとは、会社を辞めることだけではなかった。自分を覆っていた文明的自己を一枚剥がして、その下にあったものをもう一度見る作業だったのかもしれない。身体。生活。夫婦。家族。食事。睡眠。運動。自然。住む場所。他者との関係。そして、目の前の現実。それらは新しく手に入れたものではない。ずっとそこにあった。ただ、その上に巨大な「会社員としての私」が載っていた。
自己をなくす必要はない
だからといって、自己をなくせばよいわけではない。自己モデルは、生きるために必要だ。関係の中の自己も必要だ。自己物語も、長い時間を生きるために役立つ。文明的自己も、社会で生活するためには欠かせない。どれも人間が世界と付き合うために獲得してきた、大切な道具なのだろう。ただし、それらのどれかひとつが「私そのもの」ではない。自己とはひとつの固い実体ではなく、生命体が、世界・他者・時間・文明と付き合うために重ねてきた複数のモデルなのかもしれない。そう考えると、少し楽になる。肩書を失っても、私は消えない。自己物語を書き換えても、私は消えない。他者からの評価が変わっても、私は消えない。そのもっと下では、今日も身体が環境に反応しながら生きている。世界があり、その中に身体があり、身体は現実と出会い続けている。
もしかすると人生の後半とは、上へ上へと積み上げてきた「自己」をさらに立派にする時間ではなく、ときどき上の層を一枚ずつめくりながら、自分がそもそも何だったのかを思い出していく時間なのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ジム-知人とランチ@大久保(タイ料理)-ジム。阪神タイガース観戦。大相撲観戦。夕食。Line。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
