なぜ人間は「自己物語」を作るのか
最近、「自己」というものについて考えている。以前は、身体の中に「私」という司令官がいて、その私が身体に命令を出しているようなイメージを、どこかで持っていた。
しかし、どうも違う。身体はもっと分散的に動いている。外が寒ければ血管が収縮する。危険を感じれば身体が緊張する。美味しそうなものを見れば食欲が湧く。歩きやすい環境なら自然と歩数が増える。いちいち「私」が指示しているわけではない。身体は、外部環境に反応する分散システムである。
では、思考は何をしているのか。今のところ私は、思考を「司令官」ではなく、編集者兼ナビゲーターとして捉えている。人間は、目の前の現実だけに反応しているわけではない。過去の経験や記憶、他者から得た情報などを編集して、「世界とはだいたいこういうものだ」という世界モデルを頭の中に作っている。世界モデルがあるから、まだ起きていないことまで予測できる。危険を避け、食料を確保し、他者と協力する。世界モデルを作る能力は、人間の生存確率を大きく上げただろう。そして、その世界モデルの中には特殊な登場人物がいる。自分である。自分の身体はどこまで動くのか。自分は何が得意なのか。誰とどういう関係にあるのか。何を持っているのか。いま自分は安全なのか。つまり世界モデルの中に、自己モデルも作られる。ここまでは比較的わかりやすい。
生存するためには、「世界がどうなっているか」だけでなく、「その世界の中で自分がどういう存在なのか」も把握していた方が有利だからだ。ところが、人間はさらに面白いことをする。自己モデルを時間軸上に展開するのである。「昔の私はこうだった」「こんな経験をした」「その結果、今の私がある」「だから私はこういう人間だ」「これから私はこう生きていく」これが自己物語なのではないか。
では、なぜそんなものを作る必要があったのだろう。おそらくひとつの理由は、時間をまたいで自分を運用するためだ。動物として「今」に反応するだけなら、現在の自己モデルでかなり対応できる。しかし人間は、昨日の経験を今日に生かし、今日我慢して明日の利益を得て、何年もかけて他者との関係を築く。そのためには、過去の自分 → 現在の自分 → 未来の自分 をひとつにつないでおくと便利だ。しかも、人間が経験する現実は膨大である。すべてをそのまま保持することはできない。そこで思考は編集する。「あのときこうしたら失敗した」「自分にはこういう傾向がある」「だから次はこうしよう」無数の経験を、ひとつの物語に圧縮する。自己物語とは、文学的な飾りではなく、もともとは長期的に生きるための情報圧縮装置だったのかもしれない。さらに自己物語は、未来のシミュレーションにも使える。「これまでこうだった自分なら、次はこうするだろう」過去から現在までの自分をモデル化することで、未来の自分まで予測できる。そして人間は社会的動物でもある。「あの人はこういう人だ」「私はこういう人間だ」ある程度一貫した自己物語を持つことは、他者との長期的な信頼関係を作るうえでも便利だったはずだ。
こう考えると、世界モデル→自己モデル→自己物語→長期ナビゲーション という流れが見えてくる。
ところが、ここから少し話がおかしくなる。本来、自己物語は生きるための便利な道具だったはずなのに、いつの間にか人間は、「自己物語こそが私である」と思うようになったのではないか。「私は成功した人間だ」「私は失敗した人間だ」「私はこういう人間でなければならない」「私の人生はこうあるべきだ」現実に対応するためのモデルだったものが、逆に現実を見るための強力なフィルターになっていく。
先日、朝食を作っていて面白いことに気づいた。現実だけを見れば、腹が減った。朝食を作った。食べた。それだけである。ところが私の思考は、そこに意味を付け加える。「シンガポールでの生活経験によって、自分の料理の発想が広がった」たちまち自己物語になる。現実との一回の接触が、「私」という物語の一ページとして編集されていく。人間の思考は、これを一日中やっているのかもしれない。
さらに文明は、この仕組みを増幅したのではないか。職業、肩書、学歴、財産、所属組織、履歴、SNS。文明は、「私は何者なのか」を記録し、比較し、他者に提示する装置を大量に作った。もともとは長期的に生きるための便利な機能だった自己物語が、文明によって巨大化していった。
だとすれば、進化は、生存のために世界モデルと自己モデルを発達させた。思考は、時間を超えて行動するために自己モデルを物語化した。文明は、その自己物語を肥大化させた。そんな仮説も成り立つ。
そして、ここまで考えて少し面白くなった。卒サラしてから私がやってきたことは、自己物語をさらに立派にすることではなく、むしろ逆だったのかもしれない。肩書から離れる。成果から離れる。「何者か」であることから少し離れる。身体を見る。生活を見る。目の前の現実を見る。自己物語を捨てる必要はない。それも人間が長い時間を生きるために獲得した、大切な機能なのだろう。ただし、自己物語は「私そのもの」ではない。世界を生きるために、思考が編集したモデルのひとつにすぎない。
そう考えると、人間の構造が少し見えやすくなる。
身体は、現実に反応する。
思考は、世界をモデル化する。
自己モデルは、その世界の中に自分を位置づける。
自己物語は、その自分を時間の中につなぐ。
そしてナビゲーターである思考は、それらを参考にしながら、大きな方向性だけを示す。あとは身体が、現実と出会っていく。もしかすると人間に必要なのは、自己物語を完成させることではない。自己物語を持ちながら、それに閉じ込められず、再び現実へ戻っていくことなのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。郵便局-皮膚科-ジム-薬局-昼食(麻辣湯)-マシンピラティス-長男宅-8人宴席@原宿。Line。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
