人は本来、身体で感じている「今ここ」を自分として生きる存在。
しかし文明OSの中では、思考が作った「物語の自分」を自分だと思い込む。このふたつのズレが人間の苦であり、ズレが解消されると「自分」は驚くほど軽くなる。・・・最近実感する。
初期仏教の核心は「無我」だが、れは「自分がいない」という哲学ではなく、「物語の自分を自分だと思い込む必要がない」という極めて実践的な指摘である。・・・なるほど。
近代の脳科学や仏教的視点では、「固定した『自分』という実体は存在せず、脳が必要に応じて立ち上げている一連のプロセス(情報の統合状態)」に過ぎないと考えられている。人間は、複雑な環境や社会構造の中で効率よく生き残り、他者と協調・交信するために、「自分」という便利な枠組みを仮設定して生きている。・・・大きく言うとそうかもと思う。
「認知活動全体がAIに置き換わる」ように見えるのは、私たちが「思考する自分」だけを自分自身だと思い込みやすいからではないだろうか。「思考する自分」が自分だと思っていた人ほど、自分をAIに置き換えられたように感じるだろう。自分の拠って立つものを失ったように感じるかもしれない。一方で、「生命体として現実と出会う自分」が自分だと捉える人は、AIによって自分の本業が奪われるとは感じにくい。むしろ、強力なサポーターが現れたと感じる。・・・私は後者だ。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+ピラティス。朝食。執筆。昼食。執筆。喫茶。夕食。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
